62 扉
気がつけば、俺はあの男の子の家の前で立ち尽くしていた。
夜なのか朝なのか、時間の感覚が曖昧だ。
空は灰色がかった藍色で、風もなく、街全体が息を潜めているようだった。
どうしてまたここに来てしまったのか。
足元を見下ろすと、自分の靴の先が小刻みに震えている。
冷えているのか、それとも怖いのか、自分でも分からない。
そのとき――
ギィィ、と、扉のきしむ音が響いた。
目の前の玄関の扉が、音を立てながらゆっくり開いた。
中から、やわらかな灯りが漏れている。
その光の奥に、前にも見たあの女性――男の子の母親が立っていた。
「シュウくん、いらっしゃい。
そろそろ来るころだと思ってたのよ」
その声は穏やかで、どこか懐かしさを感じるほど優しかった。
けれど、その優しさの奥に、冷たい膜のようなものが張りついている。
まるで感情のない笑顔を、無理に浮かべているような違和感があった。
俺はなぜか頭をかきながら、無意識に口を開いていた。
「はぁ……また来てしまいました……」
自分でも不思議だった。
言いたいことはたくさんあるのに、口から出る言葉はそれだけ。
まるで他人の台詞を読まされているような気分だった。
「さぁ、さぁ、入って入って。
うちの子が待ちかねてるの。今日も遊んであげてね」
彼女はそう言って、にこりと笑った。
その笑顔が、薄暗い玄関灯の下で妙にぎこちなく揺れる。
肩を軽く押されると、なぜか抵抗できなかった。
心の奥のどこかで「行ってはいけない」と警鐘が鳴っているのに、
体がゆっくりと前へ動いてしまう。
「は、はい……」
絞り出すように返事をすると、足が勝手に一歩、また一歩と玄関の中へと踏み入れた。
靴を脱ぐ音が、やけに大きく響いた。
玄関の空気はぬるく湿っていて、外とは違う匂いがした。
洗剤と古い木の匂いが入り混じったようなその香りが、鼻をくすぐる。
ふと、背後の扉が静かに閉まった。
カチリと錠の音がする。
――まるで、最初から出ることなんて許されていないように。




