60 人影
気を取り直して、それからもしばらく他愛もない話を続けていた。
ひなは、旅行の計画や、次に行きたい場所の話をしていて、画面越しに時おり笑う。
その笑顔を見ると、俺の胸の奥にさっきの違和感が少しずつ薄れていく気がした。
部屋は静かで、冷めかけたコーヒーの香りだけが微かに漂っている。
けれど、その穏やかな空気が続いたのはほんの少しの間だった。
「ねぇ、シュウ……」
ひながふと声を落とした。
「今、後ろ……何か、揺れてる気がしたんだけど」
一瞬、何のことか分からなかった。
俺は反射的に振り返る。
そこにはただ、薄いカーテンが夜風に少し揺れているだけ。
エアコンの風が当たってるんだろう。
「え? どこ? 何もないよ。ただの壁とカーテンだけ」
そう言って笑いながら、カメラを少し動かして部屋の奥を映した。
スマホの画面の中で、ひなが小さく首をかしげる。
彼女の瞳は、ほんのわずかに揺れていた。
「……そっか。うん。たぶん見間違えたんだね。テレビ電話って、映像ぼやけるし……」
そう言いながらも、彼女の表情には微かに緊張の影が残っている。
唇を噛むようにして、それでも笑顔を作ろうとしているのが分かった。
俺はわざと軽い口調で言う。
「まぁまぁ、幽霊だったら挨拶くらいしてくれるでしょ」
「もう、やめてよ……」
ひなは小さく肩をすくめて、それでも笑った。
でもその笑い方が、いつもより少し硬かった。
沈黙が数秒流れる。
その間に、どこかで「コトン」と小さな音がした。
俺もひなも同時に顔を上げたが、どちらも何も言わなかった。
やがて、ひながゆっくり息を吐いた。
「シュウ、今日は早く寝なね。
木曜日までには絶対完治しててもらわないと困るから。
……それに、ちょっと疲れてるのかもね」
「うん、わかった。ひなって優しいね」
「違うもん。江ノ島、行きたいからだもんね。いい? わかった?」
「はいはい、わかりました」
「じゃあ……また明日ね」
「うん、シュウも早く寝なよ」
「わかったよ」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
電話は静かに切れた。
画面が暗転し、部屋に静寂が戻る。
けれど、その暗くなったスマホのガラス面に、
ほんの一瞬、何かが揺れたような気がした。
まるで、背後の空気が波打つように。
俺は何気なくもう一度後ろを振り返った。
……そこには、やはり何もなかった。




