痛み
エロティックな感じにしようと思ったのですが、作者の筆力では上手くいきませんでした。残念。
俺の目の前には、一人の少女が座っている。
彼女の身体はベルトで椅子に拘束され、目には得体の知れない光が宿っている。
何もかも諦めたような、それでいて、獲物の首筋に牙を突き立てる瞬間を虎視眈眈と狙っているかのような、そんな目だ。
「お前の名前は何で、何処から来た?所属は?」
俺は淡々と問いかける。定型化された、余り意味のない質問だ。
少女は、静かな声でこれに答える。
「所属…?っていうのは、ちょっと分かりませんが、名前は『瑞穂たま』といいます」
「何処から来た…えっと、パンデミックが起こった時に居たのは、華見川地区です。そこから山城線と京枝線と…環状三号線に沿って歩いてきました」
俺は、『瑞穂たま』という名前であるらしい少女を、まじまじと見つめる。
縺れた黒髪。ここ数日で急に日に焼けたような、薄赤い肌。仄かに人工的な果物の香り。それでいて、確かにその身体に染み付いた死臭。
一見すると平凡な少女のようであるが、その全身からは、何処か、手負いの獣に似た、凄絶な空気が滲み出している。
彼女だけではない。この拷問部屋に行き着く人間達は、皆そうだ。
誰しもがパンデミックから逃れようと踠き、戦い、逃げ、そして生き抜いた先に此処へと流れ着くのだ。
彼らは高貴といった風ではなかったが、必死に生へと向かう有り様は、皆それぞれに美しかった。
「お前は『旅団』のメンバーなのだろう?」
「『旅団』についてお前が知っている情報を、洗いざらい吐け」
「…私、何も知りません」
俺の威圧的な問い方にも、『瑞穂たま』は、しんとした表情を崩さない。
拘束具に絡め取られても尚、彼女の生命力は、少しも弱っていないように見えた。
俺は、何とも気怠い気分になる。
気怠い、というか、厭わしい、呪わしい、と言った方がいいのだろうか。尋問や拷問は義務だと分かってはいるのだが、如何にもこうにも気乗りしない。
躍動しようとする生命だとか、人間の尊厳だとかいったものを無理に押さえつけるのは、誰にとっても気持ちの良い事ではないだろう。
それは、同僚から、冷酷無比な拷問マシーンのように扱われている俺にだって当て嵌まる。
何だかんだ言って、俺だって、拷問を愉しむ程落ちぶれちゃあいないのだ。
「いいや、お前は知っている筈だ。早いところ吐いてしまった方がいい」
俺は、酷く苛立っている振りをして、彼女を問い詰める。
いや実際、苛立っていたのかも知れない。しかしそれは、彼女以外の何かに対してだろう。
「…………………………。」
「本当に何も知らない、です……」
嗚呼全く、嫌な仕事である。
俺は、ペンチを手に取る。そんな今も、蜘蛛の巣に足を取られたような気分だった。
「クチナシシティに居た時点で、知らない訳がないだろう!」
「直ぐにでも吐かなければ、お前の爪を剥いでいくぞ。自白するまで何枚でもな」
この言葉にも、彼女は黙ったままだ。
…ここで慄き、喚き出す人間も少なくはないが、彼女はまだ黙っている方なのか。
悲鳴だとか、敵意だとか、そういったものに慣れ切った心は、いとも冷静にそんな分析をしてみせる。
「爪と皮膚の間、というものは、人間が最も痛みを感じる部位の一つだ」
「それに、一度剥ぐと、爪が完全に再生するまでは半年程かかる」
「当然、それまで手指を保護するものは何もない。些細な事でも出血するだろうなぁ?」
俺は、こんな風に彼女を脅してみる。
どう考えても意味のない行為なのであるが、此方も上に命じられているので仕方がない。
ここで何か吐けば「真偽を確かめるため」と自白剤で脳を犯し、何も吐かなければ爪を剥いで甚振る。俺達がやっているのは、魔女裁判だ。
「…………………………。」
それでも瑞穂たまは、何も語らないし、騙らない。
「仕方ないな。実際にやられてみないと、お前達には、自分の罪深さが分からないのだろう」
俺は意図的に口の端を吊り上げ、ペンチを鳴らしながら彼女へと近づいていく。
…拷問吏である事自体本意ではないと言えど、俺は、自分自身の選択に基づいて此処に居るのだ。その事について言い訳をするつもりはなかった。
*
攻撃された。
「あ、痛っ」
右手の小指の爪を、ペンチで剥がされた。
その時に私の出した声が、これである。まるで、意図せず何かにぶつかってしまった時のような、軽い調子の声だ。
「…っ、ふー」
実際、それ位痛くなかったのだ。
ほんの一瞬、弾けるような痛みがあったが、それっきりだった。
しかし、攻撃には変わりない。
右手を見ると、小指がダラダラと血を流している。グロテスクな光景だ。
私は顔を顰めるが、それにも増して怪訝そうな顔をしていたのは、目の前の拷問吏だった。
こいつだ。
殺せ。
大方、私の反応が余りに薄い事を、不審に思ったのだろう。
もう少し、大袈裟に痛がっておくべきだったか。
まあ、この身体の持ち主たる私ですら、痛覚が鈍るという変化に驚いているのだ。
爪を剥がされるその時まで、実際私は、痛みに耐える覚悟をしていた。しかし、覚悟していたよりも遥かに何でもない事だったので、拍子抜けしてしまったのである。
まして、私とは赤の他人で、ここ暫く拷問ばかりやっていたらしいこの軍人が、喫驚するのも無理からぬ事だった。
この男にも、少し隙がある。
彼は、一瞬ばつが悪そうに目を逸らし、それから再び、化物でも見るような目で私を見た。
そんな風にされると、図星だからこそ尚の事、気分が悪い。
「痛い…」
私は目を固く瞑り、声を震わせて、そう呟いた。目尻に、薄く涙を滲ませる事さえした。
少しジンジンするけれど、別に痛くはない。
ただ少しばかり、痛がる素振りを見せただけだ。
露骨に自分が人でないのだと、アピールするつもりはなかった。そんな事をしても、此方の得にはならないのだから。
「嘘を吐け」
「普通の人間は、もっと叫びながら苦痛に喘ぐ筈なんだ」
「お前は、一体何なんだ…?」
目の前の軍人は、気味が悪そうに私を見下ろす。
蛍光灯の光が後ろから射して、彼の顔に暗い陰を作っている。灰色の双眸が、私の顔を映して揺れていた。
なんだ、誤魔化されないのか。
まあ、そりゃそうか。
標準から大きく逸脱していたら、それは、注目されて当然である。
言動と行動が一致していなかった時、信用されるのは、何時だって行動の方だ。
爪を剥がされた時の行動が標準的なものから外れていた時点で、私はもう「魔女」なのだ。
「さぁ?」
私は、開き直って笑った。
「ただの人間」と思わせる事が出来ないなら、「殺すには惜しい何者か」になった方がマシである。
私の笑みは、この薄暗い拷問部屋の中では、いたく不気味に映った事だろう。
拷問吏は、目を見開いて硬直する。
それから彼は、躊躇いがちに私の薬指の爪にペンチを掛けたが、結局、何もせずにペンチを下ろした。
こいつは、恐れているな?
じゃあ、殺せるという事だ。
私は、身動ぎをしつつ、彼の一挙手一投足に注目する。
私を拘束するベルトは、とても頼りなさげに思えた。
今の私がその気になれば、引き千切る事も出来るだろう。
そうすればいい。今すぐにでも。
そうして、この男の血を浴びてやればいい。
彼は次に何をするのだろうか。
私を殺すのか。他の人間を呼ぶのか。別の拷問をするのか。身体検査をするのか。私との対話を試みるとか?
最悪、此処で殺される覚悟はあったが、それは、少し騒ぎを起こしてからにしたい。
「お前は……」
拷問吏は、徐ろに口を開く。
「元々、痛みを感じにくい体質なのか」
そうは言ったものの、彼が「そんな訳ない」と思っているのは、火を見るよりも明らかだった。
…いや、どうだろう。存外、先程の私の「覚悟」を「怖いもの知らず」と読み違えているかも知れない。まあ、彼の理解の仕方は何でも良かったが。
「自分ではそんな事ないと思ってきましたが、どうなんでしょうね」
私は曖昧な返答をする。
どうせ、「はい」と言っても「いいえ」と言っても、事態は好転しないのだ。ならば、はぐらかすのが一番良い。一番、余計な隙を生まないだろう。
拷問吏はトレーの中をちらりと見遣って、続ける。
彼の声は、何処か、深く知る事を恐れているかのように聞こえた。
「…お前は、純粋な人間か?」
…何時までこうしているつもりだろうか?
こんな無益な会話を、続ける意味はあるのか?
さあ。
「貴方の見た通りです」
一瞬の沈黙。それから、彼は埒があかないと判断したのか、ペンチをトレーに置き、他の拷問器具を物色し始めた。
その際、彼の視線の先が、私から逸らされる。
反撃を。
私は、一気に拘束具を引き千切って立ち上がると、拷問吏の身体に手を伸ばした。
*
正直に言うと、油断していた。
「っ…!?」
いや、勿論、自分では「テロリスト」の前で油断などしていなかったつもりだ。
ただそれは、あくまで建前、言い訳に過ぎない。
彼らの正体は「避難民」で、だからこそ、俺は、自分達は絶対に安全なのだと、何処かで信じ切っていたのだ。
俺は油断した。最初、瑞穂たまから捕食者のような印象を受け、実際、彼女の拷問への反応に違和感を覚えたにも関わらず、だ。
「避難民」ではない本物の「テロリスト」の前で、間違いなく隙を見せたのである。
彼女の牙が俺の喉元に届くまで、然程時間はかからないだろう。
「ん…」
瑞穂たまの手指が、俺の肩口に食い込む。
恐ろしい力だった。大の男、しかも訓練を受けている軍人にすら、抵抗を許さない程の。
俺はこの瞬間、瑞穂たまの細腕の何処から、そんな万力のような力が出ているのか、知りたくなった。
いや、それだけじゃない。
俺は、痛みも、人を殺す事への躊躇も捨て去った、『瑞穂たま』という一人の怪物、そのものについて興味を持ったのだ。
冥土の土産に知りたい。
どうせ、上っ面だけの情報を集める、B国の犬だったんだ。最期くらい、本当に知りたい事を知らせてくれ。
瑞穂たまの指先は、凄まじい力を籠めたために、白く変色している。
不思議とその手は、左右で温度が違うようだ。まあ、何方の手も、かなり体温が低い事は確かなようだが。
彼女は俺より大分背が低いため、その華奢な腕は、俺の肩を捕まえて引き寄せようと、上方に伸ばされている。
その時、瑞穂たまのシャツの袖の奥に、一瞬、真新しい包帯が見えた。
「あ…」
包帯。彼女は怪我をしている。包帯は真新しい。変えたばかりのものだ。包帯を巻く必要性。まだ傷が塞がっていない。彼女が怪我をしたのは最近だ。では、何故?
思考が、一瞬で脳内を駆け巡る。
俺は、死神がちらりとフードの中を覗かせてくれたような、そんな心持ちがしていた。
気がつくと、彼女の顔が、直ぐ目の前にまで迫ってきていた。
瑞穂たまは、曇りがちの夜空にも似た目をしていた。
真っさらに全てを見透かせる訳ではないが、雲間に星のような決意がちらついて見えるのである。
それが、とても印象的だった。
彼女はゆっくりと口を開ける。
いや実際は、ごく短い間の出来事だったのだろう。ただ、俺の心が緩慢に見せたのだ。
最初に、先の透明な白い歯が見えて、濡れ光った舌先が浮かび上がる。やがて、奥歯が姿を見せ始める。
それらが俺の喉元に近づいていって、そして、鉄錆味の口付けをする。何度も、何度も。
彼女の歯先は、幼少の名残でまだ少しギザギザとしていて、鋭い。
「いっ……!」
「かひゅ、ぁ……」
俺は喰らわれながら、潰れた蛙のように無様な声を出す。
まず、気道を塞がれる苦しみ。
次に、喉のざらついた皮膚と肉とを切り裂かれる痛み。
それから、熱い血潮が迸る感覚。
これが、短時間に何度も繰り返された。
俺の血液が、瑞穂たまの口元を汚し、顎を伝い、服に赤黒い染みを作っていく。
俺自身の首も、粘度のある液体でドロドロに濡れているのが分かる。
嗚呼。随分、血が出たな。
そのうちに、意識が朦朧としてくる。
死が、ゆっくりと手足に絡みついてくる。熱い泥濘に嵌り込んだように、何とも心地が良かった。
俺の身体から力が抜けるに従って、瑞穂たまの指の力も、段々と緩んでいくのを感じる。
彼女は、舌先で唇に付いた血を舐め取ると、僅かに目を細めた──
*
私は、拷問吏を満身の力で抑え込むと、何度もその喉元に噛み付いた。
肉を喰らい、血を啜る。その度に、私の腕の中で、彼はびくびくと痙攣する。
鉄の臭いがする。少ししょっぱい。それが血の味なのか、拷問吏の首に薄っすらと浮かんだ汗の味なのかは、私には分からない。
噛み千切った首の皮は、ぐにゃりとしていて妙な弾力がある。食べた事のないものだ。私は、奥歯で血塗れの肉片を弄ぶ。
「かひゅ、ぅ」
彼の血は熱く、噴き出したそれを浴びながら、私は、自分がどれだけ堕ちてしまったのかを悟った。
人殺し。
私の理性が、私を譏る。
それでも、初めて舌に触れたヒトの生き血の味は、どうしようもなく甘美だった。
止められない。
それまで喉元に開いた穴の周縁をなぞるばかりだった舌を、強引に噛み拡げた傷口へと捩じ込む。
舌に、熱い血脈が触れる。そうだ。これは生きているのだ。
もっともっと、と私は貪婪に血を吸い上げる。筋肉なのか気管なのか、はたまた甲状腺なのか、よく分からない隙間に、舌先を突き刺して舐る。
溢れた血と私の唾液が混ざり合い、泡を結んで、ゆっくりと咬み傷だらけの皮膚を滑り落ちていく。私の顎の辺りで、一つ、ぱっと泡が弾けた。
浅ましい。
息を吸うほんの一瞬の間に、私はそう思った。
やがて、拷問吏の身体から、力が抜けていく。
そうして、彼が虚ろな目で此方に倒れてくるのを、私は静かに受け止めた。この瞬間、やたらに脳内は冷え切っていた。
「すみません。別に、貴方を殺したかった訳じゃないんです」
拷問吏は、頭を私の肩に凭せて、動かない。吐息も鼓動もない。彼は最早、ただの物体だった。
私は、床に散乱した拷問器具を見遣る。
それらは、どれもよく手入れされており、この死体の几帳面さを物語っていた。
「…………………………。」
「ヴ、ぁ……」
それから少しして、かつての拷問吏は身動ぎをした。
彼は、破れた喉から血の泡を零して呻き声を上げ、生々しく体温の残る身体を震わせている。
「あ……」
勿論、彼は生きている訳ではない。
まだ生命の残滓こそ残ってはいるが、それでも、彼は確かに、今しがた死んだのだから。
私が喰い殺した。
それが、ゾンビとして、蘇ったのだ。
「…そっか」
私は独りごちる。
どうやら、私も立派に、死者の仲間らしい。
私は少し力を籠め、元拷問吏の身体を自分から引き離す。
もう、私が彼に何かする必要も、意味もない。彼は、既に私にとって無害な存在だった。
「ぁ、ヴ」
押された彼はふらつきながら、私の側を離れる。
その際に目が合った淡灰色は、曇ったガラス玉のようだった。
生きていた時は氷の水晶のようだったのに、こうも変わってしまうものか。そんな感慨が、玉響に私の心を占めた。
「ゔ、ァウ……!」
私から離れた拷問吏の死体は、苦悶の声を上げながら、ただ一つある、この部屋の出口へと向かっていく。
その足取りは、一歩一歩重たげではあるが、私には、確かな目的を持っているように思えた。
「…此処に居たくないのかな?」
根拠はないが、そんな風にも見える。
まあ確かに、クチナシシティからは、ずっと厭な薄ら寒さを感じてはいたが。
「私も行こ」
「ずっと此処に居ても、しょうがないもの」
私も、幾つか拷問器具を拾って(武器が何もないよりはマシだ)、彼の後に続いた。
それから、何やら手間取っている拷問吏の横をすり抜け、部屋の扉を開ける。
「あ…」
「涼しい」
部屋の外であるというだけで、空気が幾ばくか新鮮に感じられた。それだけ、拷問部屋の空気は異常だったのだ。
外を見ると、右手には階段、左手には廊下が伸びている。
耳を澄ませば、誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。この部屋を見に来たのだろうか。銃を持っているかも知れない。だとすると、厄介だ。
「どうしよう」
「…ね、貴方が先に行ってくださいよ」
私は横目で、隣の拷問吏をちらりと見る。
それから、彼の背を押して、部屋の外へと遣る。
私が彷徨いていても、ゾンビとなった彼が彷徨いていても、どの道騒ぎにはなるだろうし、射殺のリスクもある。
ならば別に、私が先に立つ必要はない筈だ。殺したんなら、使い倒してやろうじゃないか。
拷問吏の死体は、ゆらゆらと一歩を踏み出す。
その時丁度、階段を上って、一人の軍人が現れた。彼は私の予想通り、小銃を抱えている。
私は、扉の影に身を隠した。
だから、それから先の事は、余りよく分からない。
ただ、結論から言えば、その軍人は銃を撃たなかったようだ。
単に二言三言、弱々しい声が聞こえてきただけだった。
私には、彼が何と言っていたのかは聞き取れなかったが、恐らくは、「なんで」とか「どうして」とか、そんなところだろう。
「ぁ、うぁ……」
「…………………………。」
…撃てなかったのかも知れない。どうしても。
実際、その軍人が何を考えていたのかは、私には知りようもない。
しかし、暫く後にくぐもった呻き声が止んだので外を見てみると、死体が二つに増えていた事は確かである。
もしかして、友達だったのかな。
私はそんな事を思いつつ、部屋の外へと足を踏み出した。




