第98話 クラス会長は距離感がバグっているようです
「二人とも、他にわからないところはあるか?」
「ううん、大丈夫! ありがと〜」
「ぼ、僕も大丈夫だよ」
蓮の問いに、心愛が柔らかく微笑み、樹も頬に赤みを残しつつうなずいた。
「——黒鉄君、ちょっといいかな?」
すると、タイミングを見計らったかのように声がかかった。
見上げると、結菜がいつの間にか隣に立っていた。
「藤崎、どうした?」
「あのね、私もどうしてもわからない問題があって……よかったら黒鉄君に教えてほしいんだけど、いいかな?」
「おう……いいけど」
「ホント? ありがとう!」
結菜は嬉しそうに手を合わせてから、持っていた答案用紙を差し出す。
前屈みになった拍子にシャツの襟元がわずかに開き、どこか甘さを含んだ華やかな香りがふわりと漂ってきた。
しかし、彼女は気にも留めず、ペンの先で問題を指す。
「ここなんだけど……式までは合ってると思ったんだよね。でも、答えがずれちゃってて」
結菜が困ったように眉を下げた。
(……もともと、こういう距離感のやつなんだな)
田辺たちにも似たような態度を取っていたことを思い出す。
他意があるのかどうかもわかりにくい。しかし、蓮のやることは変わらない。
「たぶん、ここだな。符号の見落としで答えが逆転してる」
「あっ……本当だ!」
目を丸くした結菜は、「もう一回やってみるね!」と、そのまま蓮の机でペンを走らせ始めた。
視界の端に、淡いピンクとわずかな谷間の気配がちらついて、蓮がさりげなく周囲を見回すと、隣に並ぶ凛々華と蒼空が視界に入った。
蒼空が何か質問をし、凛々華がうなずく。
それに満足したのか、蒼空は嬉しそうに笑った。正解をもらった子供のような、無邪気な表情だ。
(……不思議な組み合わせだよな)
結菜が凛々華を蒼空に回し、蓮を頼ったこと。
流れとしては自然なのだが、どこか釈然としないものが残る。
(一番なさそうな組み合わせだよな。やっぱり藤崎は柊を……いや、考えすぎか。今回はたまたまだろうし)
蓮が考えを振り払ったそのとき、結菜が「できた!」と明るい声を上げた。
「ありがと、黒鉄君! バッチリだったよ。さすがだねー」
「数学は得意だからな」
「そんなこと言って、数学以外もできてるんでしょ? 今回は私も負けちゃうかもね! どうする? 負けたほうがジュース奢りとかしちゃう?」
「いや、負けそうだからやめておくよ」
「そっかー、残念!」
結菜は冗談交じりに肩をすくめ、チロっと舌を出した。
「なんか悪いな」
「ううん、大丈夫! その代わり……もう一問だけ、お願いしてもいい?」
結菜はイタズラっぽく笑い、答案をひらひらと持ち上げた。
「別にいいけど……どの問題だ?」
「ありがと! 最後の問題なんだけど——」
結菜の指先を見ようとした瞬間、蓮はふと視線の気配を感じて振り向いた。
しかし、ややざわついた教室の中で、蓮に目を向けている者はいなかった。
凛々華は、蒼空に何かを問われて首を振っている。
すると、蒼空がこちらを見た。
——何かに気づいたような表情だった。
だが、蓮と目が合った瞬間、彼はハッとしたように視線を逸らし、解答用紙へと視線を落とした。
「——黒鉄君?」
「えっ? あぁ、悪い」
「大丈夫?」
結菜が身を屈め、心配そうに顔を覗き込んできた。華やかな香りが強くなる。
蓮は視線を下げ、その答案の一箇所を指差した。
「大丈夫……この問題だよな?」
「うん! よろしくー」
(さっきの、気のせいだったのか?)
蓮は心に小さな引っかかりを覚えつつも、結菜の答案に意識を戻した。
それから程なくして、結菜は正解までたどり着いた。
「助かったー、ホントにありがと!」
「おう」
「ね、教えてもらってばっかじゃ悪いし、逆に黒鉄君がわからないところとかあったら教えるよ? 数学は無理だけど、現代文とかは結構得意だし!」
「いや……ありがたいけど、今のとこ特には」
蓮が苦笑混じりに首を振ると、結菜は一瞬だけ間を置いて笑顔を作った。
「そっか! なんか、私ばっかり頼っちゃってごめんね?」
「気にすんな。教えるのも勉強になるし」
「ホント? そう言ってくれると嬉しいな! ね、また困ったらお願いしてもいい? 黒鉄君、教えるのすごく上手だし、私に合ってる気がするんだー」
「あぁ……まあいいけど」
「やった!」
結菜は小さく拳を握って微笑んだ。
「じゃあさ、今度——」
そこで、彼女はふいに言葉を止め、蓮の背後にちらりと視線を投げた。
その直後、
「マジで助かった〜。サンキュー、柊!」
蒼空の快活な声が聞こえてきた。
蓮は半ば無意識にそちらに目を向けてから、結菜に視線を戻した。
「藤崎、何か言ったか?」
「……ううん、なんでもないよ」
そう静かに首を振る結菜の表情に、ほんの一瞬だけ影が差した——ような気がした。
しかし、次の瞬間には、彼女は無邪気な笑みを浮かべて、胸の前で手を合わせた。
「教えてくれて、ホントにありがと! また頼らせてね!」
「えっ? おう……」
蓮が戸惑うのをよそに、結菜は軽やかな足取りで去っていった。
(……なんだったんだ……)
蓮は訝しげにその背中を見送ってから、結菜と入れ替わる形で戻ってきた凛々華に目を向けた。
「蒼空は大丈夫そうか?」
「一応、理解はしたみたいだけれど」
どこか冷たく感じる口調だった。
蓮はそれ以上掘り下げず、本題を切り替える。
「そうか……それで、さっき言ってた問題って、どれのことだ?
その問いに、凛々華の視線がふと蓮の背後——友達としゃべっている結菜に向けられた。
「もう、藤崎さんはいいのかしら?」
「ん? 大丈夫だろ。全部終わったし」
「そう? そのわりには気にしていたようだけれど。なにかあったんじゃないの?」
「——なんもねえよ」
「っ……」
凛々華が息を詰まらせた。アメジストの瞳がわずかに揺れた。
(俺、なんで……っ)
自分でも気づかぬうちに声を荒らげてしまい、蓮自身も戸惑った。慌てて口を開いた。
「あ……悪い。ちょっと強く言いすぎた」
「いえ……私のほうこそしつこかったわ。ごめんなさい」
凛々華が少しだけ目を伏せた。
「いや……でも、本当に、なんもねえから」
「っ……わかったわよ。何度も念を押さなくていいわ」
凛々華は息を呑み、それから呆れたように肩をすくめた。
「あぁ、悪い……そういや、さっきの問題ってどれのことだ?」
「これなのだけれど——」
凛々華はその一角をすっと指差した。
その表情にわずかに柔らかさが戻ったのを見て、蓮もようやく肩の力を抜いた。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




