第97話 芽生え始めるもの
テスト返却二日目。
今日も二教科——現代文と数学——が返ってきたことで、教室は少しざわついていた。
「ねえねえ、二人とも。数学どうだった?」
二限の数学、続いてホームルームが終わると、心愛が身を乗り出すようにして、蓮と凛々華に尋ねた。
「九十ちょうどだ」
「八十五よ」
「相変わらずハイレベルだね〜。ということは、ここまでの合計だと一点差?」
「そうなるな」
「わぁ、激アツだね〜」
心愛はのほほんとした声を上げた後、おもむろに解答用紙を差し出してきた。
「ねぇ、二人はこの問題わかる? 解き直ししたいんだけど、ちょっとわかんなくて」
「えっと……私の解き方とは違うわね」
「俺と一緒だな。教えようか?」
「本当? ありがと〜」
心愛が解答用紙を持って蓮の元へやってきた、そのとき。
「柊さん、ちょっといい?」
ふいに背後から声がした。
蓮が振り返ると、凛々華に話しかけたのは結菜だった。
「藤崎さん、どうかしたのかしら?」
「うん。あのね、青柳君、数学赤点らしくて、追試受からないと部活もできないって落ち込んでて……」
ちらりと教室の隅を見れば、たしかに蒼空が解答用紙を見てため息を吐いていた。
結菜は続ける。
「私も教えようとしたんだけど、正直この単元あんまり自信なくて……柊さんならわかりやすく教えられると思って。お願い、ちょっとだけでもいいから、助けてあげてくれないかな?」
その言い方はあくまで自然で、申し訳なさそうで、でもどこか期待を込めたような響きを含んでいた。
すぐさま、蒼空が顔を上げる。
「柊……わりぃけど、頼んでもいいか?」
凛々華は迷うように目を伏せたが、やがて小さくあごを引いた。
「……えぇ。構わないわ」
「助かる!」
蒼空はぱっと表情を明るくする。
そのやり取りを見ていた蓮は、ふと胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
結菜は、蒼空に好意を持っているんじゃないか——そんな印象を、少なからず抱いていた。
だから、彼女が自身の代わりに凛々華を頼ったのは意外だった。
もっとも、ちょうど蓮が心愛に教えようとしていたからこそ、凛々華しか頼れる者がいなかったとも考えられる。
だったら納得できるし、筋は通っていが、
(……それじゃねえんだよな)
喉の奥に残ったような違和感は、別の何かに由来している気がしてならなかった。
その正体不明のモヤモヤを追い払うように、蓮は心愛の答案用紙に視線を戻した。
しかし、ちょうどペンを手に取ろうとしたその瞬間。
すれ違いざま、凛々華がふと立ち止まり、すっと蓮のほうへ顔を寄せてきた。
「後で、手が空いたら少し見てほしい問題があるのだけれど」
「っ……」
その抑えた声は、他の誰にも届かないほどの距離で。
鼻先をくすぐるシトラスの香りと相まって、蓮は思わず息を詰まらせた。
「あ、あぁ……いいぞ」
声がわずかに上ずった。
凛々華が一瞬だけ目を見開きかけたようにも見えたが、何事もなかったようにそのまま蒼空の机へと向かっていった。
(なんでわざわざ、このタイミングで……?)
隣同士なのだから、放課後にでも声をかければいい。
それに、今日は早帰りなので、バイト前には一緒に復習をする約束をしている。教室の中でわざわざ耳打ちするほどのことでもないはずだ。
それなのに——。
(……あれ?)
ふいに、蓮はさっきまで胸の奥で燻っていたモヤモヤが、いつの間にかすっきりと消えていることに気づいた。
あれほど引っかかっていたのに、今はもう、それを追う気すら起きない。まるで、霧が晴れたあとのように、思考が静かになっている。
(これって……)
「……くん、黒鉄君?」
すぐ隣で呼びかけられて、蓮はハッと現実に引き戻された。
「あぁ、悪い」
気を取り直して答案を手に取ると、心愛がじーっと蓮を見つめていた。
「……なんだ?」
「大丈夫? 何か悩みでもあるなら、相談に乗るよ?」
「っ……」
そう言われてしまえば、自然とさっきまでの続きを考えずにはいられない。
あの感覚。霧が晴れて、胸の奥にうっすらと残されたもの。
それは、もうぼんやりと形を持ちはじめていた。
「……よくわかったな。俺が悩んでるって」
「まあ、あれだけ真剣に考え込んでたらね〜」
「そんなにか?」
「うん。だって黒鉄君、私の呼びかけに一回じゃ反応しなかったもん」
「ま、マジか……」
苦笑しながら蓮は頬をかいた。
相変わらず、心愛はふわふわした雰囲気とは裏腹に、よく人のことを見ている。彼女ならば何かしらのヒント、もしくは答えをくれるかもしれない。
それでも、これは自分自身で向き合うべきことのような気がした。
蓮は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。もう少し自分で考えてみる」
心愛は一瞬だけ目を見開き、それから穏やかに微笑んだ。
「うん、それがいいと思うよ〜。結局、答えって自分の中にしかないもんね」
心愛は意味ありげな笑みを浮かべた、その時。
「——あのっ、二人とも」
控えめな声がすぐ隣から重なった。樹だった。
「僕も……その、初音さんと同じ問題がわからなくて……一緒に教えてもらってもいいかな?」
蓮と心愛の間を行き来する彼の視線は、どこか不安げだった。
「いいぞ」
「私もいいよ〜」
蓮と心愛が快く同意すると、樹が「良かった……ありがとう」と表情を緩めた。
そして、二人とも無事に解き終えたころ、樹が心愛に向き直り、おずおずと切り出した。
「えっと、その……あの後、どう?」
主語も何もない問い。
しかし、蓮と心愛にしか聞こえない声量と、樹の案ずるような表情を見れば、それがあの一件——亜美と莉央による心愛へのいじめであることは明らかだった。
蓮は視線だけを心愛に向けた。
彼女はペンを置き、少しだけ考え込むように視線を伏せてから、顔を上げて微笑んだ。
「実はね……あの後、改めて三人でちゃんと話したんだ」
「あっ……そうなんだ」
「うん。前と全く同じ、ってわけにはいかないけど、それでも。ちゃんとお互いの気持ち、伝え合えたと思うから」
その表情は、どこかすっきりとしていて、晴れやかだった。
樹は小さく目を見開いた後、安堵したように肩をゆるめた。
「……よかった」
それは蓮の目にも明らかなほど、ほっとした表情だった。
「心配してくれてありがとね、桐ヶ谷君」
心愛が柔らかくそう微笑んだ瞬間、樹の肩がぴくりと跳ねた。
途端に耳まで赤くなり、慌てて顔を逸らす。
「えっ、い、いや……別にっ……」
わかりやすくしどろもどろになる樹に、心愛が「ふふっ」と小さく笑う。
その横顔を見比べながら、蓮は再び二人の解答用紙に視線を戻した。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




