第92話 心愛の決意
英語のノートがなくなっている——。
心愛のその言葉を聞いて、亜里沙は目を見開いた。
「え……でも、朝は確かにしまってたよね?」
「う、うん……」
心愛の声は震えていた。
確かに存在していたはずのノートが、忽然と姿を消している。
「落ち着いて探してみよ。鞄の中とか、ほかのノートの間に挟まってるかもしれないし」
亜里沙は努めて冷静に言いながら、鞄を確認するよう促した。
だが、やはり見つからない。
探せば探すほど、心愛の顔色はみるみる青ざめていった。
亜里沙は唇を噛みしめ、自分を抑えるようにゆっくり息を吐くと、心愛の手をそっと引いた。
「ね。ちょっとトイレ行かない?」
「……え?」
突然の提案に、心愛は戸惑った顔をしたが、それでも亜里沙に促されるまま、教室を後にした。
トイレというのは周囲に違和感を与えないための名目で、実際に亜里沙が心愛を連れてきたのは、人通りの少ない廊下だった。
静かな空気が流れる中、亜里沙がどう切り出すべきか迷っていると、心愛がそっとその袖を引いた。
「ねぇ、亜里沙ちゃん……」
「ん?」
「私が普通に忘れたことにするから……黒鉄君や凛々華ちゃん、それに桐ヶ谷君には言わないでもらえないかな……?」
小さな声だった。
けれど、その言葉にはしっかりとした意志が感じられた。
亜里沙は一瞬迷ったが、すぐにうなずいた。
「わかった。夏海にだけ、こっそり伝えておくよ」
「……ありがとう」
本当はもっと人手が欲しいし、もう自分たちだけで解決したいなどと言ってられる状況ではないが、それで心愛の精神的負担が増えては元も子もない。
それに、亜里沙には犯人の目星もついていた。
英語のノートが盗まれたのは、ほぼ確実に教室から人がいなくなる体育の授業前後か、その最中だ。
そして、亜里沙は見ていた。授業中に「トイレに行く」と言って抜け出していた、二人の女子生徒の姿を。
「ねぇ、心愛ちゃん——」
亜里沙は真正面から、心愛の瞳を見つめた。
「心愛ちゃんは……自分の手で犯人を捕まえたい?」
「っ……」
心愛は戸惑ったように瞳を揺らした。
唇を噛みしめ、視線を落とし、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
しばし、沈黙が続いた。
やがて、心愛は意を決したように顔を上げて亜里沙を見つめ、首を縦に振った。
「……うん。怖いけど、話を聞きたい。理由も知りたいし……私が悪いのかもしれないから……」
その言葉を聞いた亜里沙は、ふっと微笑み、苦笑混じりに言った。
「……心愛ちゃんは強いね」
昼休みは、再び蓮たちと集まって、昼食をとりながら問題の出し合いをすることになっていた。
しかし、夏海と亜里沙は「ちょっと用事があるから」と伝え、少し遅れていくことにした。
「両手に花だね〜」
夏海がおどけてそう言うと、蓮は苦笑しただけで、それ以上は何も聞いてこなかった。
うまく誤魔化せたかどうかはわからないが、確かめる術はないので、気にしても仕方のないことだろう。
「でさ、今後のことなんだけど——」
亜里沙は、英語の授業中に心愛のノートがなくなったことのみを夏海に伝えていたため、人通りの少ない廊下を歩きながら、これからの方針を共有していた。
夏海は、蓮や凛々華、樹には知らせず、三人で捕まえるという方針に異論は唱えなかった。代わりに、詳細を詰め終わると、ぷくっと頬を膨らませた。
「心愛ちゃんのノートなくなったって聞いたとき、マジでムカついたよ」
口調こそ軽いものの、声のトーンはいつもより数段低い。怒りを抑えきれない、といった様子だった。
「うん……でも、それで私たちが暴走したら意味ないからね」
亜里沙が淡々と返すと、夏海は「わかってるよ」と若干ふてくされた。
「でもさ、悪口書かれてた数学のノートが戻ってきて、今度は英語のノートがなくなって……明らかに『やってる』じゃん」
「……そうだね」
亜里沙も認めざるを得なかった。
偶然では片付けられない出来事が続いている。
「しかも心愛ちゃん、自分にも責任があるかもしれないって言ったんでしょ? なんであの子が責任感じてんのよ。マジで抱きしめてあげたいんだけど」
「うん。ちょっと心配になった」
夏海の言葉に、亜里沙はうなずく。
本当に、心愛は優しくて、誰かを責めることをしない。
「あんまりいい子って簡単な言葉で片付けたくはないけど、心愛ちゃんはマジでいい子だよね……」
「そうだね……」
——だからこそ、彼女を守りたい。
夏海と亜里沙は無言で視線を交わし、思いを共有する。
「ま、とにかく、私たちはブチギレないようにしないとね。そんなの、心愛ちゃんは望まないだろうし」
亜里沙が軽く息を吐きながら言うと、夏海は少し考え込んでから口を開いた。
「うん……でも、怒らないとは誓えないよ? やっぱムカつくもんはムカつくし」
「ま、それはね。最低限、スマートに怒ることだけ意識しよう」
「だね」
怒るべきところで怒らないのは違う。
だが、ただ感情をぶつけるだけでは、何も解決しないのも事実だ。
「……よし、そろそろ戻ろっか」
「うん。こうしている間にもあの三人は頭良くなってるんだから、私たちだけ取り残されちゃうしね」
「取り残されるのは夏海だけだよ」
「あっ、言ったな〜? 絶対負けないから!」
「心意気は買ってあげるよ」
「ふん、余裕ぶっこいてられるのも今のうちだからね!」
二人はあえて他愛のないじゃれ合いをしながら、弁当箱を手に校庭の片隅へと向かった。
放課後。
「帰らないのか?」
蓮に問いかけられ、亜里沙は軽く肩をすくめた。
「ちょっと勉強してから帰るよ。それに——勉強会で二人に置いてけぼりを食らわないように、レベル上げておかないとね」
亜里沙の冗談めかした言葉に、蓮は軽く眉をあげ、凛々華はスッと目を細めた。
しかし、彼らはそれ以上は問い詰めてくることはなかった。
「頑張れよ」
「また明日」
それぞれ一言のみを残して、教室を出て行った。
(……多分、気づいてるんだろうな)
亜里沙は苦笑した。
あの二人なら、少なくとも違和感は覚えているだろう。
全部片付いたらちゃんと謝ろう、と亜里沙は改めて決意した。
彼女たちなりの正義があったとはいえ、樹も含めた三人を仲間外れにしたのは事実なのだから。
「よし! それじゃ、勉強しよっか」
夏海が明るく声を弾ませ、いつものように言う。
亜里沙は少しだけ肩の力を抜いて、「そうだね」と答えた。
◇ ◇ ◇
亜里沙たちが勉強を終え、教室を出た後——。
「……帰った?」
「うん。今、帰ってった」
二つの影が、そっと教室を覗く。
誰もいないことを確認すると、素早く中に入り、カバンから一つのノートを取り出す。
心愛の英語のノートだった。
その二人——亜美と莉央は、周囲を頻繁に確認しながら、心愛の机に近づいた。
「心愛が悪いんだよ……!」
「……あいつが、最初に裏切ったんだから」
低くつぶやかれたその言葉とは裏腹に、彼女たちの仕草には焦りが見え隠れしていた。
ノートを乱暴に押し込み、踵を返した瞬間——、
——ガタン!
莉央のリュックが、机の脚に強くぶつかった。
「「っ……!」」
教室中に響いたその音に、二人はビクッと肩を揺らした。
「は、早く行こっ」
「う、うん」
亜美と莉央がそそくさと教室を出て、早足で下駄箱へ向かおうとした、その瞬間——、
「——ねぇ、どうしたの? そんなに慌てて」
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