第84話 風除け
校長室を出てから、蓮と凛々華はしばらく無言だった。
校舎を出る頃、蓮はふと口を開いた。
「……まさか、柊に関係なく、早川があそこまで俺に対抗心を燃やしてるとは思わなかったな」
「えぇ……そうね」
「俺も、もうちょい気にしておけばよかったかもしれねえな……」
蓮はあまり英一に深入りしないようにしていた。単に面倒くさかったのもあるが、下手に刺激しないほうがいいと思ったからだ。
しかしそれが逆に、「あしらわれた」と感じさせていたのかもしれない。
「黒鉄君の責任じゃないわ。あなたは早川君を煽ったりすることもなかったし……むしろ、謝らなければならないのは私よ。多分、彼が黒鉄君にあそこまで対抗心を燃やしたのは、私が原因だから」
「……どういうことだ?」
蓮は怪訝そうに眉をひそめた。
凛々華は言いづらそうに口を開いた。
「その……私は、早川君に諦めてもらうために、あなたを利用していたのよ」
「利用?」
「彼の前でわざとあなたに話しかけたり持ち上げたりして、可能性がないって暗に示そうとしていたの」
「あぁ、そういうことか」
利用という言葉に少し不穏なニュアンスを感じたが、説明を聞けば言いたいことは理解できた。
要は、風除けにしていたということなのだろう。
「あっ、もしかして、早川からの映画の誘いを断った直後に、俺とカフェに行く約束をしたのも?」
「……えぇ、そうよ」
「なるほどな……」
あのときの凛々華の積極性には少し疑念を覚えていたが、そういうことだったのか。
「あっ、でも、一緒に昼食を取ったり登下校をしているのはそのためではないし、カフェに行きたかったのだって本当よ? それ以外だって、別に嘘をついていたわけじゃないわ」
凛々華が慌てたように付け足した。
蓮は軽くうなずいた。
「わかってるよ。早川対策はあくまでついでってことだろ?」
「そういうことよ」
凛々華が安堵したように息をつくが、すぐに表情を曇らせた。
「……それでも、あなたを利用していたことは事実よ。だから、あなたが責任を感じる必要はないし、むしろごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
そう頭を下げる凛々華の顔には、自責の念が浮かんでいた。
蓮は思わずクスッと笑ってしまった。
「な、なによ?」
「いや、柊らしいなって思ってさ」
「……揶揄っているの?」
凛々華が眉を寄せた。
蓮は慌てて首を横に振った。
「違えよ。責任感が強いなって思っただけだ。柊は実際に迷惑してたわけだし、好きでもない相手に諦めてもらおうとすんのは当然のことだろ?」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「それに、風除けに使われた程度で迷惑だなんて思ってねえから、気にすんな」
蓮がサラリとそう言うと、凛々華は言葉を詰まらせた。
考え込むように、まつ毛を伏せる。
「……じゃあ」
「ん?」
「あなたも、私をそういう風に使っていいから」
「えっ? そういう風にって?」
「だ、だからそのっ……誰かに言い寄られたときに、私を風除けとして使っていいって言っているのよ。私だけ頼らせてもらうのは不公平だもの」
「あぁ、そういうことか」
いかにも、対等な立場を好む凛々華らしい提案だ。
「現に、高城さんや橘さんは、あなたに興味を示しているようだから」
「あの二人は、俺が意外に運動できたから、物珍しさで絡んできてるだけじゃねえのか?」
亜美と莉央はミーハータイプだから、そのうち飽きたら話しかけてこなくなるだろう——。
蓮はそう思っていたが、
「……はぁ」
凛々華は大袈裟にため息をついた。
「な、なんだよ?」
「……いいえ、黒鉄君らしいなと思っただけよ。とにかく、私は頼りっぱなしというのはあまり好きじゃないから、それだけは覚えておいてちょうだい」
「わかった。何かあれば頼らせてもらうよ」
「えぇ、そうして」
凛々華はどこか満足げにうなずいた。
蓮としては貸しがあるなどとは思っていないが、こういう真面目さも彼女の美点の一つなのだろう。
「それにしても、今回は結構抑えたのね。前みたいにもう少し詰めると思っていたわ」
前とは、校舎裏で蓮が英一を糾弾したときのことだろう。
「あのときはちょっと苛立ってたから、初音に制されるまで止まれなかったけど、あくまで早川が逆恨みしないことが最優先だからな」
「そうね。あなたのおかげで、私も冷静に話をすることができたわ……なに?」
凛々華が怪訝そうに眉をひそめた。
蓮がじっと彼女の顔を凝視していたからだ。
「柊、無理してねえか?」
「……えっ?」
予想外の問いだったのか、凛々華はパチパチと目を瞬かせた。
「いや、柊にはもっと怒る権利もあったと思うからさ。溜め込んでねえかなって、心配になって」
「そういうこと。そうね……」
凛々華はあごに手を当てて、考え込む素振りを見せた。
ややあって、イタズラっぽい笑みで蓮を見上げた。
「腹立つことがあっても、近くに自分の代わりに怒ってくれる人がいると、なんか別にどうでもよくなってくるんだよ——前に、こんなことを言っていた人がいたわ」
「っ……」
蓮は思わず足を止めた。
それは、彼の言葉だった。
「あのときは正直、あまり感覚がわからなかったけれど、今なら理解できるわ。あなたは初音さんに制されるまで止まれなかったって言ったけど、ああして怒ってくれたのは、その……嬉しかったから」
「お、おう……まあ、柊が無理してねえならいいんだけどさ」
蓮はぎこちなく答えた。
恥ずかしげにお礼を言われると、さすがにクるものがあった。
「それに、逆恨みされないことが最優先ということに変わりはないもの」
「だな。あの反応を見る限り、全く響いていないってことはないだろうし、大丈夫そうじゃねえか?」
「えぇ。復学後のことを考えると、少し気が楽になったわ。丸く収めてくれて、ありがとう」
「早川の本音を引き出して諭したのは、あくまで柊だろ」
だからお礼を言われることはない——。
蓮は暗にそう主張したが、凛々華は不満そうに眉を寄せた。
「うるさいわね。たまには素直に受け取りなさい」
「柊には素直って言われたくねえ——わかった。悪かったって!」
手刀を構える凛々華に、蓮は慌てて両の手のひらを突き出して制止した。
凛々華が呆れたようにため息をつき、腕を下ろした。
「わかったなら、言うべき言葉があるはずだけれど?」
「……どういたしまして」
「最初から素直に言えばいいのよ」
凛々華がどこか得意そうに鼻を鳴らした。
「……言わされてる感がすごいんだが」
「なにか言ったかしら?」
「い、いや、なんでもねえよ」
凛々華の腕がぴくりと動いたのを見て、蓮は慌てて誤魔化した。
凛々華はしばらくじっとりとした目線を彼に向けていたが、やがて観念したように息をついた。
——どこか、いつも通りの空気に戻った気がして、蓮もふっと肩の力を抜いた。
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