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第58話 陽キャの幼馴染と水族館に行った

 青空の下、(れん)は軽快な足取りで(ひいらぎ)家へと向かっていた。

 いつものように約束の時間より少し早めに到着し、インターホンを押そうとした瞬間——玄関の扉が音もなく開かれた。


「お待たせ」


 扉の向こうに現れた凛々華(りりか)を見た瞬間、蓮の思考が一瞬停止した。


(……え?)


 これまでの私服も大人っぽくてよく似合っていたが、今日の彼女はそれ以上だった。


 繊細なレースがあしらわれた涼しげなラベンダー色のワンピースが、風に揺れるたびにしなやかに波打っている。

 襟元には小さなリボンの装飾が施され、控えめながらも品の良さを感じさせた。

 足元は歩きやすそうなホワイトのウェッジサンダルで、軽やかさが加わり、いつもの落ち着いた印象よりもほんの少し可愛らしさがプラスされている。


 さらに驚いたのは、彼女の紫髪だった。

 普段はストレートで下ろしていることが多いのに、今日は毛先がゆるく巻かれていて、光を受けて艶やかに輝いている。

 小ぶりなパールのピアスがさりげなく揺れ、白のショルダーバッグがコーディネートを柔らかくまとめていた。


 蓮は無意識に息を呑み、そして——不覚にも、言葉を詰まらせた。

 普段なら一瞬気圧されることはあっても、すぐにさらっと「似合ってるな」と言えるはずなのに。

 昨日、(めぐみ)に色々と言われたせいで、変に意識してしまっているのかもしれない。


「……黒鉄(くろがね)君?」


 凛々華が首をかしげて、怪訝そうに蓮を見つめる。

 その視線に押されるように、蓮はようやく口を開いた。


「……あぁ、いや、すまん。いつも以上にオシャレだから、驚いちまった」

「っ……」


 一瞬、凛々華の瞳が揺れた。だが、すぐに咳払いをし、涼しい顔を作る。


「……別に、そんな特別なものではないわ。ただ、普段は制服なのだから、こういうときにしかオシャレはできないもの」


 口調こそ涼しげだが、凛々華の頬は赤くなっていた。

 彼女の赤面顔など何度も見ているはずなのに、蓮はなんだか落ち着かない気分になった。


(恵さんっ……まあ、タダでチケットをもらってるんだから、文句は言えないか)


 心の中で独りごちることで自分を落ち着かせ、蓮は「いくか」と歩き出した。




 開園二十分前、水族館の前にはすでにちらほらと人が集まり始めていた。

 潮の香りが微かに漂い、目の前には大きなガラス張りの建物が広がっている。


「開園前に着いたのは正解だったな」

「えぇ。そうね」


 凛々華の返事はどこかおざなりで、キョロキョロと周囲を見回している。

 どうやら緊張しているようだ。


「柊は、特に見ておきたいものとかあるか?」

「そうね……そもそもあまり経験がないからこれとは言えないけれど、ペンギンはちょっと見たいかもしれないわ。あなたは?」

「俺もペンギンだな。やっぱり群を抜いて可愛いし」

「そうね」


 凛々華は短く答えたものの、その声色はどこか柔らかかった。


 ふと、細く揃えられた指先が小さく動き、さりげなくスカートの裾をつまむ。

 いつもなら背筋をぴんと伸ばしている彼女が、ほんのわずか、重心を揺らすように足先を交差させた。


 次の瞬間にはすぐに表情を整え、何事もなかったかのように前を向いたが、その頬はほんのりと赤く染まっていた。

 おそらく、落ち着きがなかったことを自覚しているのだろう。


(なんかソワソワしてんな。カフェとかも初めて行くときは緊張してたし、初見の場所はなんでも緊張するタイプなのか)


 蓮がそんなことを思って微笑ましい気持ちになっていると、ちょうど開園時間となった。

 館内は涼しく、淡いブルーの照明が幻想的な雰囲気を演出している。


 巨大な水槽の前で立ち止まりながら、蓮が解説プレートを何気なく読んでいると、凛々華がさりげなく隣に寄ってきた。


「——へぇ、クラゲって意外と原始的な構造をしているのね」

「だな。脳も心臓もないらしいし」

「それなのに、こうして優雅に漂っていられるなんて……不思議なものね」


 凛々華はゆっくりと瞬きをしながら、ふわりと揺れるクラゲの姿を見つめていた。

 まるで、その穏やかな動きに心を預けるように。


(……こういうの、けっこう好きなんだな)


 凛々華の表情は、大好きな犬と触れ合っているときと同じように、すっかり和らいでいた。

 蓮も自然と柔らかい表情になりながら、その隣に立って何をするでもなく、ただただクラゲを眺めた。




「——あっ」


 館内の薄暗く幻想的な世界から、一歩外へ踏み出した瞬間、凛々華の声がわずかに弾んだ。

 温かな日差しがふわりと降り注ぎ、潮風が微かに香る。


「どうした?」

「今、ペンギンがあんな高いところから飛び降りていたわっ」


 そう言って小高い丘のようになっている岩を指差す彼女の声色は、普段の落ち着いたトーンとは明らかに別種だった。

 完全に無意識だったろう。

 気づいた瞬間、凛々華はバッと手を引っ込め、咳払いをする。


「……可愛いわね」


 何事もなかったかのように澄ました顔をしているが、その耳の先がほんのり赤い。


「いやいや、今めっちゃテンション上がってただろ」


 蓮がツッコミを入れると、凛々華はふっと目をそらし、髪を指先でいじりながらそっけなく言った。


「そんなことないわ。ただ、ちょっとすごいなと思っただけよ」


 まず間違いなく、嘘だ。

 開園前にもペンギンを見たいと言っていたし、テンションが上がっているのは間違いないだろう。


(でも、これ以上イジって、柊がはしゃげなくなっても本末転倒だしな)


 蓮はなんだか、遥香(はるか)と遊んでいるときと同じような気持ちになっていた。


「……何よ?」


 凛々華がわずかに眉をひそめる。

 蓮は相変わらず鋭いな、と舌を巻いた。


「いや、なんでもない。それより、せっかくだしペンギンを満喫しようぜ。おっ、あそこに飛び込もうとしてるやつがいるぞ」


 蓮が視線を向けた先では、一羽のペンギンが小さく身をかがめ、今にも水面へとダイブしようとしていた。


「……そうね」


 凛々華は、ふっと小さく息をつきながらも、蓮の露骨な話題転換には何も言わず、じっとペンギンを見つめた。

 その口元に小さな笑みが浮かんだのを横目で盗み見て、蓮は安堵しつつ、静かに視線を前へ戻した。


 水面に飛び込んだペンギンが楽しげに泳ぐ様子を眺めながら、彼もまた、何気ないこの時間をじっくりと味わうことにした。




 その後は、なかなか飛び込む勇気が出ないペンギンを応援する凛々華を微笑ましく眺めていた蓮が、視線に気づいた凛々華の脇腹チョップを喰らって悶絶するというハプニングもありつつ、水族館を満喫した。

 一通り見て回った後は、併設されている公園内のカフェで遅めの昼食を取ることにした。


 店内は落ち着いた雰囲気で、木漏れ日が差し込むテラス席に座ると、心地よい風が吹き抜けていった。

 凛々華はあまりキョロキョロすることもなく、店員の案内に従って席に腰を下ろした。


(前に一緒にカフェに入ったときと比べて、ずいぶん落ち着いてんな)


 感心した蓮は、すぐに一つの可能性に思いついた。


「柊、もしかして来たことあるのか?」

「えっ? えぇ、まあ。初音(はつね)さんと」


 その返答はどこかぎこちなく、ほんの一瞬、視線が泳いだ。


「初音と? なんかちょっと意外だな」

「成り行きでそうなっただけよ。そういえば彼女、他校に恋人がいるんですって」

「あっ、マジで? でも、あんまり意外じゃねえかも」


 蓮は特に驚いた様子もなく、さらりと流した。

 凛々華は小さく息を吐く。


「……本当に好きってわけじゃなかったのね」

「まだ疑ってたのか」

「だって、話しているときの表情が柔らかいから」


 蓮が苦笑すると、凛々華は言い訳のように呟いた。


「それは柊もだろ。友達としては好きだぞ。ゆるゆるだけど、芯の強さもあるからな」

「そうね……」


 凛々華は、少ししみじみとした表情でうなずいた。


「というかそれ、俺に話してよかったのか?」

「えぇ。初音さんも、黒鉄君になら話してもいいと言っていたから」

「そうなのか。一応、口の堅さは信頼してくれたんだな」

「そこら辺の信頼はあると思うわよ。そこら辺の信頼は」

「繰り返さなくていいだろ」


 蓮がツッコミを入れると、凛々華がクスッと笑った。

 すぐに引っ込めてしまったが、目尻が下がり、口元だけでなく、瞳の端にまで優しい弧が浮かんだ、無邪気で楽しげな笑顔だった。


「っ……」


 蓮はなぜか、落ち着きのなさを覚えた。

 だから、そのタイミングで注文が運ばれてきたのはありがたかった。




 カフェを出るころには、すでに夕方になっていた。


「それじゃあ、帰りましょうか」

「あぁ……あっ、でも、その前にちょっといいか?」

「何かしら?」

「こっち来てくれ」


 蓮は公園の奥へと続く道に、足を向けた。

 凛々華は怪訝そうな表情を浮かべながらも、黙って着いてくる。


 数分歩いたところで、蓮は足を止めた。


「わぁ……!」


 思わずと言った様子で、凛々華が声をあげた。

 目の前には、広い芝生の先に開けた絶景。オレンジ色に染まる空の下、遠くの海が穏やかに輝いていた。


「綺麗……」

「だな」


 ポツリとつむがれた凛々華の感想に同意した後、蓮はスマホを取り出し、照れくさそうに切り出した。


「なぁ、柊」

「何?」

「ここでツーショット、撮ってもいいか?」

「……えっ?」


 凛々華のアメジストの瞳が、限界まで大きく見開かれた。

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