第190話 蓮の誕生日① —凛々華の決意—
「まあ、このくらいでいいか」
「——蓮、おはよう」
蓮がフライパンの火を止めたところで、父親の直人がスーツに身を包んで現れた。
「誕生日おめでとう」
「おう、サンキュー」
蓮は軽く手を上げ、目玉焼きをよそい始めた。
「休みなのに、迷惑かけるな」
「習慣になってるから、やらねえほうが気持ち悪いよ。それに、モニターもけっこういいやつ買ってもらったし」
「蓮にはいつも助けてもらってるからな。ささやかなお礼だ」
直人はそう言って、穏やかに瞳を細める。
そこには、確かな息子への愛情が浮かんでいた。
「ありがとう……ちょっと遥香起こしてくるわ。部活だし」
蓮は逃げるように遥香の部屋に向かい、むず痒さを妹に——正確にはその脇腹に——ぶつけた。
「ほら、起きろ」
「ひゃっ……⁉︎ ちょ、わかっ、起きるって……!」
間もなくして、彼女は無事に目を覚ました。というより、飛び起きた。
息を整えながら、ジト目で睨んでくる。
「……最初から、激しくない?」
「朝飯できてるから、早く降りてこいよー」
「ガン無視⁉︎」
満点のリアクションに吹き出しながら、蓮は階段を降りた。
それから程なくして、遥香は軽やかな足音とともに姿を見せた。
「お父さん、兄貴。おはよー」
「おはよう、遥香」
「おう、来たか……って、何してんだ?」
彼女は何かを隠すように手を後ろに回し、ニヤニヤ笑っていた。
「ふっふっふ……兄貴には、特別にこれを贈呈しよう」
スッと差し出されたのは、カフェの千円分の商品券だった。
「誕生日、おめでと」
「えっ……いいのか?」
蓮が目を丸くすると、遥香はえへんと胸を張った。
「もう、中学生だもん。凛々華ちゃんのご機嫌取りに使うといいよ?」
「余計なお世話だっつーの……でも、ありがとな」
「どうしたしまして〜」
軽く頭をコツンと叩くと、遥香は照れたように舌を出した。
二人がそれぞれ会社と部活へと向かったあと、蓮は片付けを終わらせ、身支度を整えた。
「まだ、時間あるな」
携帯を手に取ると、クラスメイトやバイト仲間、地元の先輩たちの他に、元カノであるミラや彼女の高校の同級生である勇人からも、お祝いのメールが届いていた。
勇人とはたまに連絡を取り合っているが、まだミラとは友達以上、恋人未満の関係らしい。
「あいつ、意外と小心者っぽいからな……って、俺もか」
苦笑しながら、ふと時計に目を向ける。
まだ、五分しか経っていない。
(迎えを待つって、こんな感じなんだな……)
それから、部屋の中を歩き回ったり、何度も時計を確認したり、そわそわと落ち着かない時間を過ごしていると——、
ようやく、インターホンが鳴った。約束の時間ぴったりだった。
(来た……!)
蓮は鼓動が早くなるのを感じながら、急いで玄関へ向かった。
深呼吸をして、ゆっくり扉を開けると——、
「蓮君、おはよう。それと……誕生日、おめでとう」
凛々華がそこに立っていた。
春らしい淡い色合いのワンピースに身を包み、柔らかい表情を浮かべている。
「おう、ありがと……」
蓮は無難にお礼を返そうとして——言葉を失った。
彼の視線は、凛々華の髪元と耳に吸い寄せられた。
(耳飾りと、イヤーカフ……っ)
恋人としての初デート、そしてホワイトデーに贈ったアクセサリー。
その両方が、春の柔らかい日差しに照らされて、光り輝いていた。
「……どっちも、つけてきてくれたんだな」
蓮がそれらに触れるように手を伸ばすと、凛々華は恥ずかしそうにうつむいた。
しかし、すぐに正面から蓮を見つめ、はっきりとした声で答えた。
「今日ほど、ふさわしい日はないもの」
「っ……」
その一言に、蓮は言葉を失った。
「ふふ。それじゃあ、行きましょう?」
「……おう」
蓮が差し出された手を取ると、凛々華はぎゅっと指を絡めてきた。
「えっ……」
蓮は思わず横を向いた。
彼女はいつものように誤魔化そうとはせず、はにかむように微笑んだ。
今日は自分がリードするんだ——。
そんな決意が、伝わってくるようだった。
(……俺の心臓、耐えられるかな)
少しだけ心配になる蓮だった。
凛々華に連れられてたどり着いたのは、大通りから少し外れた路地裏にひっそりと佇むカフェだった。
店の前には、数組の人だかりができていた。
「けっこう混んでるな」
「予約しておいたから、大丈夫よ」
「えっ……マジか。ありがとう」
「調べたら、予約必須と書いてあったもの」
凛々華はそう澄ましてみせるが、よく見れば、小鼻が少し膨らんでおり、口元もひくついていた。
(今、笑ったら絶対に拗ねるよな……っ)
蓮は必死に笑いを堪えながら、ピンと背筋を伸ばす凛々華に続いて、店内に足を踏み入れた。
「柊様ですね。お待ちしておりました」
案内されたのは、奥の窓際の席だった。
柔らかな自然光がテーブルを優しく照らし、壁際にはドライフラワーの飾りが控えめに彩りを添えている。
メニューを開いた凛々華は、待ちきれないとばかりにパラパラとページをめくり、ある一品を指さした。
「食事ももちろんだけれど、このケーキが美味しいのよ。甘すぎないし、蓮君の好きな牛乳の風味も味わえるわ」
「へぇ、たしかに美味そうだな……でも、食べたことあるのか?」
「えぇ。初音さんを誘って、下見に来たときに——あっ」
凛々華がハッと口を押さえた。その頬がじんわりと熱を帯びていく。
意外と抜けているのだ、彼女は。
「それが聞けただけで、満足だよ」
「っ……蓮君、ちょっと立ちなさい」
「えっ? おう」
蓮は躊躇いながらも、素直に立ち上がった。
凛々華が指を三本立てる。
「そのまま、三つ歩いて」
「いや、ニワトリじゃねえから」
蓮がすかさず切り返すと、凛々華はくすっと笑みをこぼした。
蓮の胸がじんわり温かくなる。
(こんなかわいい表情が見られるのなら、ニワトリ扱いでもいいな……いや、それはちょっと違うか)
自分にツッコミを入れてから、蓮は慌てて表情を引き締めた。
どうやら、テンションが上がっているのは凛々華だけではないようだ。
食事が運ばれてきて、しばらくは普通に楽しんでいた。
だが、ふと凛々華が蓮の皿を覗き込む。
「蓮君、そっちのも食べさせてもらえるかしら?」
「おう、いいぞ」
皿を押し出そうとすると、凛々華がわずかに眉をひそめる。
「違うわ。そうじゃなくて——」
彼女は小さく口を開いて、視線を逸らしながらぽつりと言った。
「い、いつもみたいに……していいわよ」
「えっ……マジで?」
思わずまじまじと見つめてしまう。
凛々華はますます頬を染めながら、こくんとうなずいた。
「誕生日、だもの」
「そっか……じゃあ、アーン」
「ん……」
唇をすぼめる凛々華の表情は、羞恥に染まっていた。
「……無理しなくていいんだぞ?」
「う、うるさいね。そっちも口、開けなさいよ」
「はいはい」
蓮は自然と笑顔になりながら、素直に口を開けた。
◇ ◇ ◇
「いやぁ、マジでうまかったな……」
蓮はお腹をさすりながら、つぶやいた。
凛々華イチオシのケーキも、まさに好みのど真ん中で、あっという間に平らげてしまった。
「予約必須っていうのも、わかるわね」
凛々華も満足げだ。
「値段もそこまで高くないし」
「味に比べたら安いよな」
雑談を交わしながら、蓮がいつもの癖で伝票に手を伸ばすと——、
「私が出すわよ」
凛々華がスッと制止した。
「あっ……ありがとな」
「誕生日なのだから、当然でしょう?」
彼女はどこか得意げに言い放ったあと、伝票をサッと手に取った。
会計へと向かうその背中は、どこか軽やかに弾んでいて。
「……最高の贈り物だな」
「えっ、何か言ったかしら?」
凛々華が不思議そうに、振り返る。
「いや、なんでもない」
蓮はゆっくりと首を振り、立ち上がった。
先に店の外に出ていると、間もなくして凛々華が姿を見せる。
「ごちそうさま。マジで美味かったぞ」
「よかったわ……今日はとことん、甘えてもらうから」
「おう、そうさせてもらうよ」
並んで歩き出しながら、スッと凛々華の耳元に口を寄せる。
「——でも、そっちからも甘えてくれていいんだぞ?」
「っ……!」
凛々華が息を呑み、足を止めた。
蓮はてっきり、「調子に乗らないで」というお叱りとともに、脇腹チョップが飛んでくるのを覚悟していたが——、
彼女は顔を火照らせながら、そっと上目遣いで見上げてきた。
「そ、外では恥ずかしいから……帰ってからよ?」
「えっ……?」
蓮の心臓が、不意に大きく跳ねた。
凛々華の視線はどこか熱を帯びていて、声には媚びるような甘さがあった。——普段の理知的な彼女とは、まるで別人のようだった。
「っ……ほ、ほらっ、次行くわよ!」
「お、おう」
凛々華の慌てたような声で、蓮はようやく詰めていた息を吐き出した。
(いや……凛々華のことだから、言葉通りの意味だよな、きっと)
ひとつ息を吐き出し、彼女の隣に並んだ。
いくら誕生日とはいえ、越えてはいけない一線は存在する。
(落ち着けよ、俺……)
深呼吸をしてから、蓮は静かに凛々華の手を取った。
——おずおずと握り返してくる彼女は、首元まで真っ赤に染まっていた。




