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第164話 それぞれの距離感

「じゃ、また明日なー!」

「次は勝つから、首ゴシゴシ洗っとけよー!」

「おう。じゃあな」


 蒼空(そら)たちと別れて、(れん)がスマホを確認すると、凛々華(りりか)から二件、連絡が入っていた。

 亜里沙(ありさ)とお茶をしていたようだが、もう家に帰っているらしい。


(凛々華と井上(いのうえ)って、二人きりだと何話すんだろうな)


 このときの蓮は、話を聞くのを楽しみにしていたのだが……。


「お疲れさま。楽しかったかしら?」


 玄関先で出迎えてくれた凛々華は、なんというか——少しだけ元気がなかった。


「おう。めっちゃ楽しかったし、スッキリしたけど……凛々華は大丈夫か?」

「えぇ、大丈夫よ。ただ、少し考えごとしてただけ」


 いつものように微笑む凛々華だったが、どこか浮かない。

 そのわずかな違和感に、蓮はすぐ気づいた。


「何かあったのなら、話してくれねえか? ——たぶん、井上と何かあったんだろ」

「っ……」


 凛々華の瞳が揺れた。蓮の中で、不安が大きくなる。

 リビングに上がり、ソファに並んで腰を下ろした。


「喧嘩、とかじゃねえよな?」

「えぇ……今日、井上さんから相談を受けたのよ」


 亜里沙は中学の友達と久しぶりに集まり、一人の男子と思いがけず距離が縮まって、この前デートをしたらしい。


「それ、俺が聞いちゃっていいのか?」

「確認は取ったわ。いずれ、みんなにも話すと言っていたし」

「ならよかったけど……」


 蓮は言葉を濁した。

 今のところ、凛々華が思い悩むようなことは見当たらない。


「井上さん、付き合うなら、なるべく一緒に過ごすべきかどうか悩んでいるみたいで。私たちの場合は、同じ空間にはいても、それぞれ別のことをしていることも多いでしょう?」

「そうだな」

「そのことを話したら、それなら一緒にいる必要はないんじゃないか、って……。もちろん、そんな嫌な感じで言われたわけじゃないのよ? ただ、井上さんからすると、あんまり感覚がわからないみたいで……」


 凛々華がそっと視線を伏せる。


「まあ……普通じゃねえかもな、俺らの関係は」

「っ……」


 凛々華が静かに息を吸い込む。

 蓮は穏やかな口調で続けた。


「でも、それを言うなら、出会った瞬間から普通じゃなかった気もするけどな」

「……それは、そうね」


 凛々華は思わずといった様子で、口元を緩めた。


「だろ? だから、別にそんなに他と比べる必要もねえと思う。俺は今、めっちゃ楽しいし……凛々華は?」


 問いかけると、彼女は頬を染め、ゆっくりとうなずいた。


「……私もよ」

「なら、それでいいんじゃねえか? 話したいときに話して、くっつきたいときにくっつけるわけだし——こうやってさ」


 そう言いながら、蓮は彼女の肩に手を回して、ゆっくりと引き寄せた。

 凛々華は、少しだけ照れたように視線を泳がせながらも、おずおずと身をあずけてきた。

 蓮は、そっとその頭を撫でて、笑みを浮かべる。


「一緒にいないと、これはできないだろ?」

「……そうね」


 凛々華は一瞬だけ、蓮の胸に顔を埋めたあと、彼を見上げてはにかむように微笑んだ。


「ありがとう。少し、気が楽になったわ」

「それならよかった」

「冷静に考えれば、普通かどうかなんて、気にする必要はないわよね」

「ま、そういうことだ」


 蓮は手を下ろし、凛々華の指先に自分の指を絡めた。

 彼女も、何も言わずに握り返してくる。

 

 自然と視線が合った。

 笑みを交わしてから、同時に照れたように視線を逸らす。


「そういえば、あの二人も、古着屋を見に行ったあと、おうちデートをするみたいよ。今頃はもう、初音(はつね)さんの家にいるかもしれないわね」

「マジで? (いつき)が生まれたての子鹿みたいになってるのしか、想像できねえんだけど」

「それはさすがに失礼よ」


 凛々華が苦笑を浮かべ、蓮の肩を小突いた。




 ——蓮の言葉は、たしかに失礼だったかもしれない。

 しかし、あながち的外れではなかった。


「ふぅ……」

 

 樹は心愛(ここあ)の部屋の前で、深呼吸をした。

 初めてではないのに、未だ緊張してしまう自分が、少し情けない。


「ふふ、そんなに緊張しなくていいよ〜」


 心愛がニコニコ笑いながら、扉を開けて樹を招き入れる。

 部屋は彼女らしい明るい雰囲気で、かわいらしいぬいぐるみなどが出迎えた。


「……なんか、黒鉄君と柊さんは、もうサラッとお互いの部屋入ってそうだよね」

「おうちデートは当たり前、みたいな感じだったもんね〜」

「うん、もう日常の一部なんだろうね。一緒にいるのが」


 心愛はうなずいたあと、ふと表情を和らげながらも、少しだけ真面目な声色になった。


桐ヶ谷(きりがや)君は、いられるなら——あの二人みたいに、ずっと一緒にいたい?」

「うーん、どうだろう。ずっと一緒はちょっと……あっ、も、もちろん初音さんがいやとかじゃないよ⁉︎」


 焦るように手を振る樹に、心愛はくすくすと笑って首を横に振る。


「ふふ、わかってるよ〜。私に限らず、価値観としてそうなんでしょ?」

「うん。一人の時間が特別好きなわけじゃないけど……沈黙はあんまり得意じゃないから、話題がなくなっちゃったらキツいかな。だから、初音さんは色々話題を持ってて凄いと思ってるし、助けられてるよ」


 そう言いながら、樹は照れたように視線を泳がせる。


「私は、話したいから話してるだけだよ〜。それに、桐ヶ谷君も物知りじゃん」

「くだらない雑学とかだけだよ。自分から、話を振れないし」

「全然それでいいと思うよ〜。桐ヶ谷君の雑学、面白いもん。それに——」


 心愛は少しだけ真面目な表情を浮かべる。


「会話にも、それぞれ役割があるからさ。話を振るのが上手な人もいれば、話を広げたり、ちょこっと飾り付けをするのが得意な人もいるんだよ」

「なるほど……初音さんとか水嶋(みずしま)さんが、話題を振るのが上手な人?」

「傾向としてはそうかもね〜。亜里沙(ありさ)ちゃんとか黒鉄君は話を広げるのがうまくて、桐ヶ谷君と凛々華ちゃんは、ちょこっと飾り付けをしたりするのが得意なイメージかな。うまく話題をまとめるっていうか」

「まとめるって……そんな大層なことした覚えないし、そういうのは初音さんのほうが上手じゃない? 藤崎(ふじさき)さんが暴走したときも、そうだったじゃん」


 樹が苦笑しながら言うと、心愛がふんわりと笑った。


「確かに、ああいう緊急事態はそうかもだけど、普通の雑談に関しては、桐ヶ谷君が一番まとめるの上手いと思うな。夏海ちゃんと亜里沙ちゃんと黒鉄君だけなら収拾つかなくなりそうだし、凛々華ちゃんはまとめるというよりぶっ壊すって感じだもん」

「物理的にね」

「そうそう! ……ほら、今のとかも、いい飾り付けだと思わない?」

「あっ……うん」


 心愛の言葉に、樹は思わず口角を上げた。


「主語や述語に目が行きがちだけど、修飾語だって大事なんだから。桐ヶ谷君がいるから場が締まってること、実はけっこう多いんだよ? だから、自信もって」

「……うん。そうだね」


 樹はふっと微笑み、頭を下げた。


「ありがとう。そんなふうに言ってもらえたの、初めてで……なんか、元気もらえたよ」

「ホント? よかった〜」


 心愛が胸の前で手を合わせ、ニコニコ笑う。

 

「初音さんって、本当に人のことよく見てるよね」

「まあね。でもやっぱり、特に桐ヶ谷君は無意識に目で追っちゃうんだ〜」

「えっ……⁉︎」


 樹は一瞬で真っ赤になり、固まってしまった。


「ふふ」

 

 心愛は微笑みながらもどこか柔らかい視線を向けてきた。

 まるで、小さな子どもが頑張っている姿を見守るような、包み込むような優しさ。


 ——その眼差しが、樹の中のちっぽけなプライドをくすぐった。


「……僕だって、数学のときに、初音さんが首ガクってなって起きたの見てたし」

「えっ、あれ見られてたの? やめてよ〜」


 心愛は少し気恥ずかしそうに、頬を指先で軽く押さえる。

 樹は一瞬、見惚れてしまい——慌てて視線を逸らした。


(……手強すぎるって)


 やり返せたと思っても、そのリアクションすら破壊力抜群なのだから、手に負えない。


「でも、安心したよ〜」

「えっ、なにが?」

「桐ヶ谷君が、凛々華ちゃんたちみたいに過ごしたいって思ってなくて。ほら、私バレエで結構時間取られちゃうから、我慢させたり気を遣わせちゃってないかなって、心配だったんだ」


 その言葉を聞いて、樹は一瞬だけ眉をひそめた。

 思い出したのは、心愛の過去の話。遠距離でなかなか会えなかったという元カレとのこと。


 ——もしかして、また同じことを繰り返すんじゃないかと、彼女は不安に思っているのではないか。


「……そんなこと、ないよ」


 言葉は自然と口をついて出ていた。


「僕は、初音さんがバレエを頑張ってるの、すごく尊敬してる。あんなに真剣に何かに打ち込んでるのって、すごいと思うし……。だから、無理して時間を作らなくても大丈夫。むしろ、僕ももっと頑張らなきゃって思えるから、いい刺激になってるっていうか」

「そっか〜……。ありがと、桐ヶ谷君!」


 心愛が、ふわりと腕を回して抱きついてきた。


「は、初音さん⁉︎」


 突然の柔らかい感触と、鼻先をくすぐる甘い香りに、樹は声を裏返らせた。

 しかし、心愛は離れるどころか、ぎゅっとしがみついてきて、


「桐ヶ谷君のそういう優しいところ、好きだよ?」

「っ……!」

 

 樹の全身が熱を帯びた。

 気の利いた返事すらできず、視線を逸らしてしまう。


「もう、かわいいな〜」


 心愛がくすっと笑って、頬を突いてくる。


「——ねぇ」


 彼女は、少しだけ真剣な声を出した。

 樹が思わず視線を戻すと、心愛は照れたように笑って、上目遣いで見つめてきた。


「な、なに?」

「……ちゅー、してほしいな」

「っ——!」

 

 樹の鼓動が一気に跳ね上がる。

 一瞬、息を呑んで——それでも、勇気を振り絞ってうなずいた。


「……うん」


 緊張でぎこちない動作のまま、そっと心愛の肩に手を添える。

 彼女も目を閉じて、かすかに顔を近づけた。


 そっと触れるだけの、やわらかくて温かいキス。

 ほんの数秒の静寂のあと、唇が離れたとき、心愛は嬉しそうに目を開けた。


「えへへ、嬉しい」


 照れくさそうにはにかむ彼女を前にして、樹は言葉を失った。


(主導権を握れる日なんて、本当に来るのかな……)


 見惚れてしまいながら、彼はふと、そんなことを思った。

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