第156話 凛々華のわがまま
「凛々華には、これから三つ、わがままを言ってほしい」
「……どういうこと?」
凛々華が目を瞬かせる。
「そのまんまの意味だよ。凛々華のしてほしいことを三つ、俺に言ってくれ。——ただし、いくつか条件がある」
「まぁ、そうくるわよね」
蓮は手のひらをひとつ立てて、説明を始めた。
「まず一つ目。わがままの内容は、俺に何かをしてほしいっていうものだけ。『腕立てして』とか、自分が見て楽しむ系はダメな」
「それは残念だわ」
「おい……それから、二つ目。必ずお願いの形にすること。内容はなんでもいいから」
凛々華はしばらく考え込んでから、静かに口を開いた。
「水を取って、とかでもいいということよね?」
「おう。それも立派なわがままだからな。で、最後は凛々華というよりは俺のルールなんだけど……凛々華が三つわがままを言うまでは、俺からは何もしない」
「なに、それ」
凛々華が眉を寄せる。蓮は曖昧に笑ってごまかした。
「タイミングは任せるから。普通に過ごしていい」
「……わかったわ」
普段通り、ソファに並んで腰かけ、それぞれ本を開く。
しばらく静かな時間が流れた。
「ねえ、クッション取ってくれる?」
「おう……って、一つ目にカウントするか?」
「えっ? い、いえ、今のはただのお願いよっ」
焦って手を振る凛々華を見て、蓮が小さく吹き出す。
すると、腕をつねられた。
「なに、笑ってるのよ」
「いや、別に」
蓮が笑いながら首を振ると、凛々華はふん、とそっぽを向く。
反射的に頭を撫でそうになり、蓮は慌てて腕を引っ込めた。
やがて、凛々華は本をぱたんと閉じた。
そして、当たり前のように蓮にもたれかかってくる——が、
「っ……」
蓮はぴくりと反応しながらも、微動だにしなかった。
「……そういうこと」
凛々華が小さくつぶやいた。
——そう。
蓮から何もしないというのは、裏を返せば、これまで自然とやっていたスキンシップも行わないということだ。
もちろん、蓮にとっても辛い。今すぐにでも凛々華を抱き寄せたい。
けれど、それ以上に——
(凛々華の口から、お願いを聞きたい)
素直に甘えてくれるようになったし、感謝や好意もちゃんと伝えてくれるようになった。
でも、「〜して」と頼られることは、ほとんどない。
凛々華はしばらく、身を寄せたまま、葛藤するように目を泳がせていた。
それから、なにかを決意したように小さく息を吐き、今度はそっと蓮の服の袖をつまんだ。
「……ぎゅっ、しなさいよ」
少し拗ねたような声。蓮の腕が、一瞬ぴくりと動く。
が、しかし——
「凛々華。お願いの形、だぞ」
「っ……」
凛々華が顔を背け、小さな声でつぶやく。
「……ぎゅって、して」
「——もちろん」
蓮は彼女を包み込むように、強く抱きしめた。
「ちょ、ちょっと苦しいわよ」
凛々華は抗議の声を上げるが、その口元はほころんでいた。
蓮が腕の力を緩めると、じっとりと見上げてくる。
「……十分、変なお願いだと思うのだけれど?」
「悪かったな」
蓮が気まずそうに頭を掻くと、凛々華はくすっと笑みを漏らし、そっと体重を預けてきた。
その後も、二人はしばらく穏やかな時間を過ごしていた。
お互いに手元の本を読んだり、とりとめのない話をしたり。
「……ねえ、蓮君」
蓮が立ち上がると、タイミングを見計らったように、凛々華が小さく呼びかけてきた。
その声音には、わずかな躊躇が混じっていた。
「どうした?」
凛々華は視線を合わせないまま、蓮のもとに歩いてくると——、
そっと抱きついてきた。
「っ——」
固まる蓮を、上目遣いで見上げてくる。
「蓮君も……もっと、くっついて」
「……わかったよ」
蓮は凛々華の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。
少しだけ久しぶりの温もりが、じんわりと胸に染み渡っていく。
凛々華の言葉は、少し抽象的だった。
(ルール的には、グレーだけど……)
それでも、あれだけ勇気を出してくれたのだ。応えないわけにはいかないだろう。
何より、蓮自身が限界だった。甘えた声ですり寄ってくる猫を無視するなど、できるはずもないのだ。
(あと、一つか……)
凛々華がどんなわがままを言うのか。
蓮にとっては、楽しみでもあり、少しだけ怖くもあった。
やがて凛々華が身を引き、蓮の顔を見上げてきた。
でもすぐに逸らして、言いかけては口を閉じる。
三つ目のわがままを言おうとしているのは、明白だった。
そしてとうとう、その口が薄く開かれ——、
「キ……っ」
何かを言いかけて、凛々華の顔が一気に真っ赤に染まった。
——耐えられるわけがなかった。
気づいたときには、蓮は凛々華の唇を奪っていた。
「んっ……」
凛々華が喉を鳴らし、驚いたように目を見張る。
「……私、まだわがままを言っていないのだけれど」
「ごめん……今のは無理だった」
「な、何が無理なのよ——んっ」
凛々華の声は、蓮の口の中に消えた。
「ん、ふっ……」
角度を変えながら、蓮は心ゆくまで、凛々華の唇を味わった。
最後に長めのキスをしてから顔を離すと、彼女は口元を隠しながら、赤らんだ目元で睨みつけてくる。
「い、いきなり何⁉︎」
「いや、その……今まで我慢してた分と、頑張ってくれたご褒美」
蓮が言い訳をすると、凛々華がやれやれと言わんばかりにため息を吐いた。
「……自分からルール破ってどうするのよ」
「悪い。凛々華の攻撃力を見誤ってた」
「あなたの防御力が低いだけじゃないかしら?」
「うるせえ」
ぶっきらぼうに言いながらも、蓮は凛々華を抱きしめ、頭を撫でる。
「……悪いな。変なことさせて」
「別にいいわよ」
凛々華がふっと笑う気配がした。
「次、やり返せばいいだけだもの」
「……数学教えなくてもいいか?」
「英語教えないわよ」
「まじでごめん」
軽快なやり取りの後——
一拍の間を置いて、顔を見合わせて同時に笑い出した。
「でも、普段の俺らって、無意識にめっちゃくっついてたんだな……」
「い、言わなくていいのよ。そういうことは」
耳まで真っ赤に染めながら、凛々華が睨んでくる。
けれど、蓮は怯まず、少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「でも、どっちかっていうと、甘えてくるのは凛々華からが多くね?」
「っ……そ、それは……」
凛々華が口を開きかけ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
代わりに、少し拗ねたように唇を尖らせる。
「蓮君が、あまり甘えてこないだけじゃないかしら」
「っ——」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の中で何かが弾けた。
気づけば、凛々華の首筋に顔を埋めていた。柔らかい肌の感触と、ほんのり香る彼女の匂いが、じわじわと蓮の理性を溶かしていく。
「っ……やれば、できるじゃない」
凛々華は呆れたように、それでもどこか嬉しげに笑って、頭を撫でてくる。
それが、最後の引き金となった。
白い首筋に吸い寄せられられるように、蓮は口付けを落とした。
「きゃっ⁉︎」
凛々華の甲高い悲鳴が部屋に響き、次の瞬間、蓮は肩を軽く押し返された。
「ちょ、ちょっと、蓮君っ! 甘えるって、そういうことじゃないわよ!」
頬を真っ赤に染め、肩を震わせながら抗議してくる。
「ご、ごめん……つい」
蓮が素直に謝ると、凛々華は視線を逸らしながら、小さな声でつぶやいた。
「……別に、責めてるわけじゃないわよ」
「そっか……。じゃあ、もう一回——」
「調子乗らないで」
鋭い手刀が、蓮の脇腹に正確に突き刺さった。
「ぐあっ……!」
床に崩れ落ちた蓮の背中を見て、凛々華が小さく吹き出す。
「本当に、もう……油断も隙もないんだから」
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