第155話 進路選択
第四回定期テストが始まる数日前、教室で担任の小池から進路調査票が配られた。
「提出期限はまだ先だから、模試や今回のテストの結果も参考にして、じっくり考えてください。保護者の署名も忘れないようにねー」
帰りのホームルームが終わると、生徒たちは調査票を片手に、近くのクラスメイトと早速言葉を交わす。
「どっちにする?」
「俺は理系だな。国語とか無理だし」
「私は数学嫌いだから、文系一択かなー」
「医者とかって、やっぱり理系だよな?」
ざわつく教室の中、蓮はふと隣を見た。
「どうする?」
何気ないふりをして尋ねると、凛々華は少しだけ顔を上げて、短く答えた。
「ちょっと……考えてるわ」
その声音は、いつもより少しだけ硬かった。
——それ以降、第四回の定期テストが終わるまで、二人の間でこの話題が出ることはなかった。
◇ ◇ ◇
——テスト返却、最終日。
「七点差で、黒鉄君の勝ち〜!」
「すごいね、初音さん。二連勝だ」
「えへへ〜」
心愛と樹が笑みを交わしあう。
前回同様、夏海と亜里沙も含めた四人で、蓮と凛々華の勝敗を懸けた賭けを行なっていた。
「くそっ、数学の十二点差が痛かった……!」
凛々華に賭けていた亜里沙が、机に手をついて悔しがる。
同じく凛々華を推していた夏海が、肩をすくめた。
「私と亜里沙の愛じゃ、心愛ちゃんと桐ヶ谷君の愛には勝てなかったってことだね」
「ふん、夏海への愛なんてないし」
「二連敗したからって、拗ねないの——ひゃあ⁉︎」
ニヤニヤしながら亜里沙の肩を叩いていた夏海が、脇腹を突かれて甲高い悲鳴を上げた。
「亜里沙、やったな〜……ひゃっ! な、なんで心愛ちゃんが⁉︎」
「ごめんね〜。目の前に隙だらけの脇腹があったから、つい」
「柊さんじゃないんだから」
苦笑いを浮かべる夏海に、亜里沙が「柊さんだって、別に無差別じゃないでしょ」とツッコミを入れる。
彼女たちは、いつも以上に明るく振る舞ってくれていた。
——きっと、蓮と凛々華の間に流れる微妙な緊張を、感じ取っていたのだろう。
放課後、蓮は凛々華の家を訪れていた。定期テストの振り返りという名目だったが、空気は重苦しい。
蓮の答案を見ながら、凛々華がぽつりとつぶやく。
「……理科も数学も、安定して点取ってるわよね」
「まあな」
蓮が曖昧に同意すると、彼女は躊躇うように唇を舐めてから、続けた。
「……やっぱり、理系?」
ここ二週間、お互いに避けてきた話題だった。
でも、いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。
「ああ。プログラミングとか、学んでみたいと思ってるからさ。……凛々華は、文系か?」
「……迷っているの」
凛々華が瞳を伏せた。弱々しい声だった。
「得意なのは文系科目で、数学は、蓮君が教えてくれるからどうにかなってるだけだもの。今回も、良くなかったし」
「まあ、そうだな」
これまでのテストも、数学と理科は蓮が、英語と国語は凛々華が上回り、社会は僅差、ということが多かった。
「お母さんの負担を考えると、現役で国公立に入りたいし、将来的には子育て支援に携われたらと思っていて、そのためには文系のほうが有利だわ。でも、そうと決めてるわけではないし、理系科目も苦手ではないから、勝負はできると思うのよね……」
凛々華の声が、尻すぼみに小さくなる。
文系を選択する理由は、ほとんど蓮の予想通りだった。
(母子家庭だから、より子育て支援への関心も強くなったんだろうな)
幼いころから一人の時間が多いというのは、寂しかったはずだ。
蓮には遥香がいたから、大変ではあっても孤独を感じたことはなかった。
(絶対、文系向きだよな)
それでも凛々華が迷っているのは、蓮と一緒の道に進みたいという健気な思いがあるからだ。
——だからこそ、蓮は言った。
「俺は、凛々華は文系に行くべきだと思う」
「え……?」
凛々華がかすれた声を漏らす。
「得意科目的にも、将来のビジョン的にもな。全然知らねえけど、子育て支援なら社会学とか心理学とか必要になるんだろうし、そしたら文系のほうがいいと思う」
蓮は凛々華が納得してくれると思っていた。
予想に反して、彼女は瞳を伏せた。
「……蓮君は、それでいいのね」
「っ——」
蓮はハッとなった。言葉の選択を間違えていた。
文系のほうがいいなんて、絶対に凛々華もわかってる。そういうことじゃなかったんだ。
「でも、確かに蓮君の言う通りだわ。ごめんなさい。私また、自分のことばっかりで——」
「——凛々華っ」
蓮はピシャリと遮り、凛々華を抱きしめた。
「れ、蓮君っ?」
「ばか……そんなの、俺も一緒がいいに決まってんだろ」
「っ……」
腕の中で、凛々華がピクッと震えた。
おずおずと見上げてくるアメジストの瞳に、微笑みかける。
「もちろん同じクラスになりたいし、授業だって全部同じがいいくらいだ。でも……俺のわがままで、凛々華の将来を狭めたくなかったから」
凛々華はしばらくの間、じっと蓮の顔を見つめていたが、やがて小さく笑みをこぼした。
「……不器用な人ね」
「お互い様だろ」
蓮が苦笑すれば、凛々華も小さく笑みをこぼす。
空気がふっと軽くなった。
「ごめんなさい、少し視野が狭くなっていたわ」
「謝ることはねえよ。それだけ、真剣に考えてくれてたってことだろ?」
「……まあ、そうだけれど」
蓮がポンポンと頭を撫でると、凛々華が気恥ずかしげに目を逸らした。
「ちょっと、お母さんに相談してみるわ」
「それがいいと思う。凛々華がちゃんと考えて決めたことなら、どんな選択でも尊重するから」
「えぇ……ありがとう」
凛々華が口元をほころばせ、そっと蓮の胸に頭を預けてきた。
——翌日。
「私、文系にするわ」
「……そうか」
蓮はゆっくりとうなずいた。
一抹の寂しさはあるが、こればかりは仕方のないことだ。
「ある程度は自立する必要があるし、蓮君も言った通り、会えなくなるわけじゃないもの。ちょっと、大袈裟に考えすぎていたみたい」
「そうだな。正しい判断だと思う。お互い頑張ろうぜ」
「えぇ……でも、やっぱり少し不安はあるけれど」
凛々華がふっと視線を落とす。
「初音さんと水嶋さんは文系と決めてるみたいだけれど、同じクラスになれるとは限らないし」
「絶対大丈夫だろ、今の凛々華なら」
凛々華がスッと瞳を細める。
「あら、前はダメだったということかしら?」
「そ、そういうわけじゃねえって」
「ふふ、わかってるわよ。丸くなったのは、自覚しているわ」
凛々華は、その言葉に相応しい穏やかな笑みを浮かべた。
「昔の私なら、こうして人に弱音を吐くなんて、あり得なかったもの」
「あぁ、だから大丈夫だって。……でも、そんな心配してるところ、悪いんだけどさ」
蓮は、凛々華の手をそっと包み込んだ。
「クラスが分かれても、登下校とか昼休みは今まで通り一緒に過ごしたいんだけど……いいか?」
「だめよ」
「えっ?」
速攻で拒否され、蓮は呆然と固まった。
凛々華がぷっと吹き出す。
「なんて顔してるのよっ……!」
「えっ、いや、だって……っ」
凛々華がゆっくりと首を振る。
「そういう意味じゃないわ。……放課後だって、別々に過ごす必要はないでしょう?」
「あっ……なんだ、そういうことか……」
蓮はホッと肩の力を抜いた。本気で焦った。
凛々華がイタズラっぽく微笑む。
「それはそうよ。たとえ教科は違っても、一緒に勉強すること自体に意味はあるもの」
「それは助かる。英語とかは、ずっと教えてもらいたいしな」
「ある程度は自分でやるのよ?」
少し呆れたような口ぶりだったが、その目は柔らかかった。
「わかってるって。でも、頼りにしてる」
「ふふ……しょうがないわね。その代わり、こっちも数学は頼らせてもらうわよ」
「おう、任せろ」
蓮が大きくうなずくと、凛々華は「自信満々ね」と苦笑にも似た笑みを漏らした。
「でも、凛々華。——忘れてないよな?」
蓮がテスト用紙を掲げると、凛々華がうっと言葉を詰まらせた。
なんでも一つ、言うことを聞かせることができる権利。
定期テスト対決の勝利報酬は、蓮の手中にあった。
「……嫌な予感がするのだけれど」
凛々華がじっとりとした目線を向けてくる。
「変なことじゃねえから、安心してくれ」
蓮はニヤリと口角を上げた。
内容はすでに決めていた。昨日の夜、思いついたのだ。
素直な彼女だったら意味をなさない、相手が凛々華だからこそ効力を発揮する「お願い」を。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




