第148話 彼女が寝落ちした
「お邪魔します」
「いらっしゃい、蓮君」
玄関で出迎えた詩織が、優しい笑みを浮かべる。
「すいません、突然お邪魔しちゃって」
「いいのよ。ゆっくりしていってね」
和やかな挨拶を終えると、蓮は凛々華とともに彼女の部屋へと向かった。
それぞれ本を開き、言葉少なに、それでも心地よい空気を共有していた。
詩織が「少し買い物に行ってくるわね」と告げて出ていってから程なくして、凛々華がパタンと本を閉じた。
「読み終わったのか?」
「えぇ。お茶でも入れてくるわ」
凛々華が立ち上がろうとした瞬間、蓮はスッと腰を上げた。
「いや、昨日飲み物くれたお礼ってことで、俺がやるよ」
「えっ?」
「待っててくれ」
驚く凛々華を残して、蓮はバッグからジップロックを取り出し、そのまま一階のキッチンへ向かった。
ハーブティーのティーバッグを、自宅から持ってきたのだ。
湯を沸かし、カップにティーバッグを入れると、ふわりと優しい香りが立ちのぼる。
カモミールに、ほんの少しのミント。
甘くて、どこか清涼感のある香りが、蓮自身の肩の力まで抜いてくれるようだった。
喜んでくれるだろうか——。
そんなことを思いながら、二階に戻る。
「——ほら」
「ありがとう……」
猫の絵柄のカップを手渡すと、凛々華はどこか緊張した面持ちで受け取り、一度湯気を吹いてからそっと口に含んだ。
「……あったかい」
その一言に、蓮は思わず口元を緩めた。
「今日くらいは、ゆっくり休んでくれ。何かしてほしいことあれば、遠慮なく言ってくれていいからな」
「……」
凛々華は一瞬だけ顔を伏せた。その肩が、わずかに揺れる。
やがて、カップをテーブルに置き——、
「じゃあ……ちょっとだけ借りるわ」
頬を染め、そっと蓮にもたれかかってくる。
「いくらでも貸すよ」
蓮は彼女の肩を優しく抱いた。
サラリと、髪の毛が落ちる。
「……凛々華の髪って、綺麗だよな」
「な、何言ってるのよ」
「あっ、いや、悪い。つい」
照れ隠しのように言うと、凛々華は小さくため息をつき——蓮のシャツの裾を、そっと指先でつまんだ。
「……蓮君」
「どうした?」
「その……ありがとう。延期してくれたのも……今日、来てくれたのも」
「前に、甘えさせてもらったしな」
だからおあいこだ、と蓮は笑った。
凛々華は頬を緩めたあと、ぽつりと言った。
「……じゃあ、今度は蓮君が膝枕してくれないかしら?」
「えっ」
蓮は思わず目を見張った。
「されたこと、ないんだもの」
言い訳めいた口調で付け足す凛々華が、可愛らしくて。
蓮は自然と笑顔になりながら、自身の膝を叩いた。
「いいぞ」
「え、えぇ」
凛々華は静かに横たわり、膝の上に頭を乗せる。
頬を染めつつも、どこかワクワクした表情を浮かべていたが、すぐに不満げに眉をひそめた。
「……硬いわね」
「仕方ねえだろ」
蓮は苦笑いを浮かべた。
女の子と違って、男の体は基本的にゴツゴツしているものだ。
「クッションでも敷くか?」
「いえ……このままでいいわ」
凛々華が蓮の太ももに手を添え、スッと目を閉じる。
普通にベッドに横になればいいのではないか——。
蓮はそう思ったが、それが無粋であることは、さすがにわかった。
(たぶん、眠りたいわけじゃねえんだろうな)
蓮はそっと凛々華の頭を撫でる。
ゆっくりと、何度も。
するとそのうち、すぅ、すぅというかわいらしい息遣いが聞こえてきた。
「硬いんじゃなかったのか」
思わず笑ってしまう。
凛々華の寝息は規則正しく、耳に心地よく響いていた。
静かにその頬を見つめる。
長く整ったまつげ。ほんのり赤みを帯びた頬。
「……かわいいな」
誰にも聞かれないような小さな声で、ぽつりとこぼす。
そして、ほんの少しだけ顔を近づけ——頬に軽く、キスを落とした。
「ん……」
凛々華のまぶたがぴくりと動いたが、目は開かない。
蓮は微笑みながら、静かに彼女の体温を感じ続けた。
凛々華が目を覚ましたら、もう一度言葉にして伝えよう——。
そう、心に決めた。
凛々華はしばらく、気持ちよさそうに眠り続けていた。
「……んぅ」
声にならない声を漏らしたあと、やがてそのまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。
アメジストの瞳がうっすらと光を取り戻し、数回まばたきを繰り返したあと——
「っ……!」
彼女は突然、バッと上体を起こした。
「文句言ってたわりには、よく寝たな」
蓮が茶化すように言うと、凛々華は照れ隠しのようにそっぽを向きながら、ぽつりとつぶやいた。
「……硬めの枕が好きなのよ」
「凛々華のって、どっちかっていうと柔らかくねえか?」
蓮がすぐそばにある枕に手を伸ばすと——、
「黙りなさい」
ガラ空きの脇腹に、鋭いチョップが突き刺さる。
「いてっ……まだ、本調子じゃねえみたいだな」
「チョップの強さで判断しないでもらっていいかしら」
凛々華がジト目で睨んでくる。
どうやら、先程よりは元気が戻ってきたようだ。
「悪い悪い……で、このあとはどうする? もっと寝ててもいいけど」
「いえ、もう目は覚めたし、映画でも観たいわ」
「そうするか」
蓮が凛々華の机の上からパソコンを持ってきて、ベッドに並んで腰を下ろす。
二人の膝にまたがるようにブランケットをかけ、その上にパソコンを乗せる。いつもの態勢だ。
画面が起動する音の中、蓮は凛々華の手を取った。
彼女は少し動揺したようだが、すぐに指を絡めてきた。
映画が進むにつれ、二人の距離が少しずつ縮まり、肩が自然と触れ合う距離になった。
やがて、エンドロールが流れ始めるころ——
「ふわぁ……」
蓮はあくびを漏らした。
「……膝枕はしてあげないわよ」
凛々華がすかさず釘を刺すように言うと、蓮は苦笑しながら肩をすくめた。
「わかってるって……でも、これくらいはいいだろ?」
そう言って、凛々華の肩にそっと頭を預けた。
「っ……!」
凛々華が息を呑む気配がした。
蓮がちらと様子を見ると、彼女は耳の先まで赤くなっていた。
「まあ……それくらいなら、いいけれど」
平然を装ってはいたが、目線が泳いでいる。
そんないじらしい様子が見れたなら、勇気を出して甘えた甲斐があったというものだ。
蓮は満足げに笑って、再び目を閉じた。
——すると次の瞬間、頬に手のひらが添えられた。
そのまま、額にふわりと柔らかい感触。
「……っ」
あまりに突然のキスに、蓮は呆然とするしかなかった。
「り、凛々華、今の——」
「いつも、あなたがしていることよ」
凛々華はわずかにそっぽを向きながら、それでもいたずらっぽく微笑んだ。
その照れと誇らしさが混じった表情に、蓮の胸がじんわりと熱くなる。
でも、やはり男のプライドとして、やられっぱなしというわけにはいかない。
蓮は頬が熱を持つのを感じつつ、ふっとひと息吐いた。
「……たしかに、さっきもしたしな」
「えっ?」
凛々華が記憶を探るように、瞬きをする。
蓮はニヤリと口角をあげて、一拍置いてから言った。
「——寝てるときだよ」
「っ……!」
凛々華の顔が一気に紅潮する。
今しかない——。
「凛々華って、やっぱり……かわいいよな」
「な、なっ……⁉︎」
凛々華はうろたえたように、口をパクパクさせる。
蓮は笑いながら、そっと彼女を抱き寄せた。
「——ありがとう」
その一言は、自然にこぼれたものだった。
今だけじゃない。これまでの様々な思いがにじんでいた。
「な、なんなのよ、いきなり……っ」
凛々華は困惑したように言いながらも、腕の中から逃れようとはしなかった。
それが嬉しくて、蓮はますます力強く彼女を抱きしめた。
言葉を交わすわけでもなく、彼らはしばらくお互いの温もりを感じていた。
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