第147話 彼女の異変と、家でのひととき
定期テストが終わると、今度は体育祭の練習が始まった。
樹などは「なんで球技大会に加えて体育祭まであるんだ……」と嘆いていたが、蓮は別に嫌ではなかった。
むしろ、球技大会が意外と楽しかったので、体育祭にも期待していた。
ただ、今日の練習は少しきつく感じられた。
寝坊したためバタバタしていて、水筒を忘れたのだ。
(喉、乾いたな……)
あとで一本買うか、と思っていると、目の前にすっとペットボトルが差し出される。
「今日、水筒忘れたと言っていたでしょう?」
凛々華は、どこか言い訳めいた口調でそう言った。
「いいのか?」
「べ、別に、今更じゃない」
凛々華がほんのり頬を染める。
「あっ、いや……シンプルに飲んでいいのかって意味だったんだけど」
「っ……いらないなら、そう言いなさい」
「いや、もらうよ。ありがとな」
邪念が生じないように、蓮は素早く口をつけた。
——なのに、つい間接キスの四文字を思い浮かべてしまう。
「……果汁入り?」
「ただの水よ」
凛々華が呆れたように息を吐く。
(あれ?)
蓮は違和感を覚えた。制裁が飛んでこないのは、人目が多いせいだろう。
それより、息遣いや表情がどこか元気がないように思えた。
——バイト中も、蓮は密かに凛々華の様子を観察した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
凛々華は笑顔で接客をしていた。歩く姿勢も綺麗なままだ。
しかし、奥に引っ込むときに、思わずといった様子で息をついていた。
(やっぱり、しんどそうだよな)
念の為、共有しているアプリでも確認したが、もうすぐ生理の時期だ。始まる前のほうが辛いと言っていた記憶がある。
ただ、話題が話題なだけに、他の人の目もある中で声をかけるべきか、蓮は悩んでいた。
すると、告白以降はあまり自分からは話しかけてこない彩絵が、すすす、と近寄ってきた。
「黒鉄君——」
「伊藤、どうした?」
「凛々華さんの状態はウチが見ておくんで、心配しないでいいっすよ」
彩絵がグッと親指を立てた。
蓮は目を見張る。
「気づいてたのか?」
「はい。辛そうだったら無理やり休憩させますし、こういうのは女の子同士のほうがいいと思うんで、任せてくださいっす」
「ああ……悪いな。頼む」
「大船に乗ったつもりでいいっすよ」
彩絵がニカッと笑ったところで、視線を感じた。凛々華がこちらを見ていた。
一瞬のことだったか、彩絵も気づいたのか、スッと蓮の元を離れ、早足で凛々華のもとへと向かった。
「柊さん——」
彩絵が凛々華に何か耳打ちした。
すると、アメジストの瞳が見開かれ、蓮を見る。
——無理すんなよ。
そう伝えるように、蓮は笑みを浮かべてうなずいた。
「っ……」
凛々華はサッと顔を背けた。髪の隙間から覗く耳は、赤く染まっている。
それが妙に可愛らしくて、蓮は思わず口元をほころばせた。
彩絵がニヤリと笑って凛々華の肩をぽん、と叩いた。
すると、凛々華が何かを囁き、彩絵が途端に頬をひきつらせて手を振る。
(あとで覚えていなさい、とか言ったんだろうな)
彩絵は、しばらく凛々華と一緒に更衣室に入ろうとしないかもしれない。
そんなことを考えていると、くすっと笑みがこぼれる。
(何はともあれ、あれなら大丈夫そうだな)
心が軽くなるのを感じながら、蓮は業務に意識を戻した。
◇ ◇ ◇
帰り道、凛々華の足取りは重かった。
「大丈夫か?」
蓮が声をかけると、凛々華は少し遅れて応じた。
「えぇ、まあ……」
口調は平静を装っていたが、普段の彼女なら「問題ないわ」と言い切るはずだ。
それが言えないということは、相当きついのだろう。
(強引にでも、休ませるべきだよな)
蓮は少し迷ったあとで、なるべく軽い調子で提案した。
「明日のデート、延期するか」
凛々華の肩がピクッと揺れた。慌てたように首を振る。
「いえ、大丈夫よ。そんなに動き回るわけじゃないし……」
「でも、駅からちょっと歩くし、今日のバイトもきつかっただろ? 無理すんなよ」
凛々華の歩幅が乱れる。
彼女は一瞬だけ蓮を見て、視線を下げた。
「……ごめんなさい」
「謝ることねえよ。体調悪いときくらい、ゆっくり休めばいい」
「えぇ……」
明るい口調を心がけたが、凛々華の声は沈んだままだ。
蓮はひとつ間を置いてから、続けた。
「……その代わりってわけじゃねえけどさ。明日、凛々華んち行っていいか?」
「っ……」
凛々華の動揺が、繋いだ手を通して伝わってくる。
「……別にいいけれど、あまりおもてなしはできないわよ」
やがて返ってきた答えは、少しだけ素っ気ないものだった。
余計なお世話だったか——。
そんな考えが、蓮の頭をよぎったとき、
「でも……ありがと」
小さく呟かれた言葉とともに、握った手に力が込められた。
蓮の視線から逃れるように足元を見つめる凛々華の口元は、ほんのり弧を描いていた。
「……おう」
蓮は、しっかりと彼女の手を握り直した。
少しだけ、自分を誇らしく思えた。
それからぽつぽつと言葉を交わしていると、間もなくして柊家にたどり着いた。
「送ってくれてありがとう」
凛々華が門扉の前で振り返る。
「おう」
蓮は軽くうなずいた。
でも、それだけでは足りない気がして。
「また明日な」
そう言って、そっと凛々華を包み込む。
彼女は一瞬だけ驚いたように固まり、それからおずおずと蓮の背中に腕を回してきた。
その全身から、徐々に力が抜けていくのを感じる。
(ずっとこうしてたいけど……凛々華は早く休みたいよな)
そう考えて、蓮が体を離すと、
「あっ……」
凛々華が、名残惜しそうな声を漏らした。
「えっ?」
蓮は思わず、まじまじと凛々華を見つめてしまう。
彼女は顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
しかし、横目でチラチラと蓮の様子をうかがっている。
——まるで、何かを期待するように。
「夜、電話するか?」
気づいたときには、そう言っていた。
凛々華はオロオロと視線を泳がせたあと、上目遣いを向けてくる。
「……蓮君が、したいなら」
囁くような、それでいて、どこか甘えた声だった。
蓮は口元が緩んでしまうのを感じながら、うなずく。
「じゃあ、手が空いたら連絡するよ」
「えぇ……でも、やるべきことを終わらせてからよ。明日は土曜日だし、時間は気にしなくていいから」
「わかってるよ」
蓮は笑いながら、最後にもう一度だけ、凛々華をぎゅっと抱きしめる。
「じゃあ、またあとでな」
「えぇ。気をつけて」
「サンキュー」
軽く手を振り、蓮は背を向けて歩き出した。
夜風の冷えてくる季節だが、胸の内はすっかり温かくなっていた。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




