第144話 将来の話
——文化祭から一週間が経過した、土曜日の午後。
蓮は凛々華の部屋で、二週間後に迫った定期テストのための勉強をしていた。
「……ふふ」
トイレから戻ってくると、凛々華が携帯を見て、笑みを漏らしている。
「何見てるんだ?」
蓮が背後から覗き込むと、凛々華の膝の上で猫が甘えてる写真が表示されていた。
「文化祭の振替休日で行ったときのやつか。毎日見てるよな」
「わ、悪い?」
「いや、全然。けどその顔、クラスのやつらが見たら、一瞬誰かわからないんじゃねえか?」
「っ……」
揶揄うように言うと、凛々華の頬がじんわりと火照る。
彼女は耳に髪を掛け直しながら、そっと視線を逸らした。
「……こんな表情、蓮君以外に見せないわよ」
「っ……」
予想外の反撃に、今度は蓮が息を詰めた。
(凛々華もけっこう慣れてきたよな……)
照れくささを紛らわそうと、話題を変える。
「そういえば、先生が冬に文理選択があるって言ってたよな。ぼちぼち、将来のことも考え始めないといけない時期か」
「えぇ……蓮君は、写真家とかいいんじゃないかしら」
「えっ?」
思わぬ提案に、蓮は目を丸くする。
「なんでだ?」
「だって、よく私のこと隠し撮りするじゃない。この前の猫カフェでも撮ってたの、気づいてるわよ」
「いや、あれはその……凛々華だから撮りたいだけで、写真を撮ること自体に思い入れはないっつーか」
「っ……」
蓮が頬を掻きながら正直に告げると、凛々華はサッと顔を背けた。
耳まで赤くなりながら、ため息混じりにつぶやく。
「……本当に、蓮君ってそういう人よね」
「今のは、そっちが言わせたようなもんだろ」
蓮は苦笑いを浮かべた。
「そういう凛々華自身は、どうなんだ?」
「そうね……」
凛々華が、考えをまとめるように机の縁をそっとなぞる。
「これと言ってやりたいことがあるわけではないけれど、安定した職に就いて、お母さんを安心させたいとは思ってるわ。大学にも行かせてくれるって言ってくれているし」
「さすがだな。でも、あんまり背負いすぎんなよ。何かあったら、すぐに話してくれていいから」
「っ……えぇ、ありがとう」
凛々華は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと笑みを浮かべた。
そして、少し誤魔化すように尋ねてくる。
「その、蓮君は何かやりたいこととかあるの?」
「んー……まだぼんやりだけど、プログラミングとか、動画編集とか、最近ちょっとずつ触ってみてはいる」
「そうなの?」
凛々華が少し驚いたように眉を上げた。
「何か作るのって楽しいしな。向いてるかどうかは別だけど、今はそっちの方面に進むのもアリかなって」
「いいじゃない。素敵だと思うわ」
「ありがとな。……ま、今はそれより、目の前のテストをクリアしねえとだけど」
「えぇ。ある程度の成績は残しておかないと、選択の自由もなくなるもの」
「そうだな……」
そのとき、蓮はふと凛々華の顔を見つめた。
(……文系、なんだろうな。たぶん)
けれど、蓮は何も言わなかった。
もしかしたら、凛々華もまた、それに気づいていたかもしれない。
◇ ◇ ◇
気がつくと、夕方になっていた。
凛々華の部屋には柔らかな陽が差し込み、ほんのりと橙色に染まっている。
「ちょっと、洗濯物を取り込んでくるわね」
凛々華が立ち上がりながら言うと、蓮は教科書から目を上げた。
「手伝おうか?」
「えっ、い、いいわよ。すぐ終わるし」
少しだけ慌てたように手を振る凛々華に、蓮は首をかしげる。
「でも、二人のほうが早いだろ?」
「そ、そうだけど、その……あんまり、見られたくないから」
凛々華はもじもじと頬を染めた。
「あっ……悪い」
ようやく意味を察した蓮は、気まずさを覚えつつ、頭を下げた。
「い、いえ、気持ちは嬉しかったわ。ありがとう」
「おう」
凛々華が足早に一階へと降りていくと、蓮は自分の頬をパチンと叩いた。
(余計なこと考えるな……落ち着け……)
そして、無理やり頭を切り替えようと、教科書を手に取りながら英単語を声に出して読む。
しかし、その声を打ち消すように、階下から掃除機の音が響いてきた。
(……取り込みだけじゃなくて、掃除も?)
なかなか戻ってこないことに、蓮は少しだけ寂しさを覚えた。
しかし、凛々華がこのタイミングで掃除をする理由にも、おおよその見当はつく。
(ちょっと気まずいんだろうな……)
原因は、おそらく先程のやり取りだ。
だとすれば、このまま待っているのが賢明だろう。
やがて掃除機の音が止み、足音が階段を上がってくる。
「お待たせ」
凛々華がふたたび部屋へ現れたとき、手には湯気の立ったお茶と、小皿に並べたクッキーの乗ったお盆を持っていた。
「おっ、いつもありがとな」
手作りのお菓子を振る舞ってもらうのは、何度目だろうか——。
そんなことをぼんやり思いながら、早速一つ手に取る。
「……マジで、どんどん上手くなってるな」
蓮はクッキーを味わいながら、しみじみとつぶやいた。
「まったく……調子がいいんだから」
凛々華は少し照れたように目を伏せ、ぽつりとこぼした。
けれど、その声色はどこか嬉しそうだ。
その細い指がクッキーに伸ばされる。
一口かじると、小さく「うん」とうなずいた。自分でも満足のいく味だったらしい。
蓮はお茶を飲み、ふっとひと息つく。
「にしても、すげえよな、凛々華って」
「な、なによ急に」
凛々華がびっくりしたように目を瞬かせる。
「いや、洗濯も掃除もして、お菓子も作って……すげえなって思ってさ」
凛々華は少し目を見開き、それから視線を逸らしながら、どこか照れくさそうに言った。
「別に、これくらいしかやってないし……家事は嫌いじゃないもの」
「そうなのか。じゃあ、将来は専業主婦とかも——あっ」
口に出してしまってから、失言だと気づいた。
「い、今のはただ言ってみただけで、深い意味はねえからな」
「わ、わかってるわよ」
蓮の釈明に、凛々華は唇を尖らせてそっぽを向いた。
気まずい沈黙が落ちる中、凛々華が空気を変えるように「でも」と声を出す。
「それを言うなら、蓮君のほうが主婦じゃないかしら。家族の分の朝食やお弁当、夕食まで作っているのだから」
「ま、俺は遥香との分業制だからな。それに、掃除苦手だし」
「確かに、蓮君に任せていたら散らかり放題になってしまうわ」
「それは言いすぎじゃね?」
思わずツッコむと、凛々華がほんのり目元を緩めた。
「まあ……あれ以降は、ちゃんとやってくれているけど」
「自分のものを片付けるのは基本だからな」
蓮はそう得意げに胸を張るが、
「いい心がけね。けど、自室はどうなの?」
「っ……」
鋭い問いに、つい視線を外してしまった。
凛々華がわざとらしく口元に手を当てる。
「今度、遥香ちゃんに頼んで抜き打ちでチェックしてみようかしら」
「ま、待てっ。それはマジでやめてくれ!」
蓮は反射的に立ち上がっていた。
「あら、ずいぶんな慌てようね? 何か——見られてはいけないものでもあるの?」
凛々華がイタズラっぽく瞳を細めた。
「そ、そんなもんはねえけど! ほら、たまたま散らかってたりするタイミングってあるだろ?」
「……ふふ」
蓮が必死に言葉を重ねると、凛々華が吹き出した。
「そんなに焦らなくても、さすがに無断で部屋に入ったりはしないわよ……。それより、勉強に戻りましょう? 明日も一日バイトなのだから、おしゃべりしている時間はないわ」
「そっちが始めたんだろ……」
蓮が苦笑混じりにこぼすと、凛々華はくすくすと楽しげに笑った。
釣られるように、蓮も自然と口元を緩めてしまう。
(この笑顔に勝てる日は、一生来ないんだろうな)
少しだけ悔しくはあるけど——
それもまた、幸せというものなのだろう。
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