第136話 彼女と猫カフェに行った
猫カフェの前で、凛々華はソワソワと落ち着かない様子を見せていた。
手には、先日彩絵からもらった割引チケットを握りしめている。
「猫カフェ、初めてなのよね……」
その言葉に、蓮は思わず目を丸くした。
「えっ、マジで? あんなに毎日猫の動画見てるのに?」
「写真集だってあるわよ」
凛々華がどこか得意げに言う。
「そういえば、そうだったな」
彼女の部屋の本棚には、参考書の隣に猫の写真集が並んでいた。
それでも、猫カフェは未経験だったとは意外だ。
「タイミングがなかったのか?」
「えぇ、まあ……」
凛々華はちょっと気まずそうに視線を逸らす。
蓮はそれを見て、すぐに察した。
(一人じゃ無理だったんだな)
凛々華は一見クールで自立しているように見えるが、実は知らない場所に一人で入るのが苦手だ。
本当はずっと来たかったのだろう。
「猫愛も、一人の恐怖には勝てなかったか」
蓮が軽く揶揄うように言うと、凛々華はじろりと鋭い視線を向けた。
「……っ、そんな顔すると、猫が寄ってこないぞっ」
蓮が慌てて付け加えると、凛々華はふっと息を吐き、頬をわずかに染めて言った。
「……あとで覚えてなさい」
(あとでなのか)
蓮は吹き出しそうになったが、凛々華にジト目を向けられ、なんとか表情を引き締めた。
凛々華はわずかに肩の力が抜けたようだが、それでもまだ頬がひきつったままだ。
「猫をかわいがるだけなんだから、緊張することねえって。ほら、行こう」
軽く背中を押してやると、凛々華は恥ずかしそうにうなずき、二人で一緒に店内へと足を踏み入れた。
店内に入ると、猫たちが思い思いの場所でくつろいでいて、その光景に凛々華の瞳がキラキラと輝き出した。
店員から軽く説明を受け、いよいよ猫たちと対面する。
「わぁ……!」
凛々華は先程までの緊張が嘘のように、歓声を上げた。
それでも最初は、猫たちの気ままな様子に戸惑いを見せていたが、一匹の猫が彼女の手に頬をすり寄せてくると、次第に表情が和らいでいった。
「おいで」
凛々華はしゃがみこみ、そっと手を差し出した。
猫が鼻先で指をくんくんと嗅ぎ、ぺろりと舐めた。
「ふふ」
凛々華は表情をへにゃりと緩め、ゆっくりと撫で始める。
「すごく……やわらかい」
その手つきは、まるで宝物を扱うように繊細で、目元も柔らかな弧を描いている。
普段の冷静さとは違う、無邪気な様子に、蓮は思わず携帯を構えた。
——カシャッ。
シャッター音に、凛々華が驚いたようにこちらを振り返る。
「ちょ、撮らないで……!」
耳まで真っ赤にしてそっぽを向く彼女に、蓮は慌てて手を挙げた。
「悪い悪い」
「もう……」
凛々華は口を尖らせたが、それ以上何も言わず、猫たちに視線を戻した。
(……凛々華がこんなに楽しそうに笑うの、久しぶりに見た気がする)
蓮も、自然と口元がほころんだ。
また二人でこうして過ごせることが嬉しくて、どこか気持ちが浮き立っているのを自覚する。
(俺も、せっかくだし楽しまないとな)
近くの猫に手を差し出すと、興味深げに近づいてきて、指先を軽く舐めた。
蓮は驚きつつも、その可愛らしさに思わず笑みをこぼした。
少しして、蓮は「ちょっとトイレ」と告げて席を立った。
用を済ませて戻ってくると、凛々華は誰もいないと思っているのか、膝に抱えた猫に甘い声をかけていた。
「ふふ……いい子ね。そんなに甘えて」
その声音は、普段よりずっと柔らかくて、愛おしさがにじみ出ていた。
(その表情、やばいな……っ)
蓮が思わず見とれていると、凛々華も視線に気づいたのか、顔を真っ赤にしてあわてて体を起こした。
すると、猫が驚いたように膝の上から飛び降りた。
「あっ……」
凛々華が残念そうな声を出した、その瞬間。
ぴょん、と別の猫が彼女の膝に飛び乗った。
「っ……」
驚いた凛々華が小さく息を呑む中、猫は膝の上でくるんと丸まり、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えた。
まるで、自分がいる二ャ、と言っているようだった。
「……めちゃくちゃかわいいな」
「えぇ」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
自然とあたたかい空気が流れる。
「本当に、かわいいわ」
凛々華はぽんぽんと猫を撫で、優しく微笑んだ。
その表情のまま、蓮を見る。
「蓮君も、猫派になったんじゃないかしら?」
「あ、あぁ、そうだな」
蓮は少し動揺しつつ、うなずいた。
猫に気を取られている凛々華は、彼の些細な変化には気づくことなく、意識を戻す。
そんな彼女に視線を向け、蓮は心のうちでうめいた。
(そんなことより、凛々華がかわいすぎる……!)
何派かと問われれば、蓮は間違いなく凛々華派だ。
そのとき、一匹の猫がすり寄ってくる。
「お前もそうだよな?」
蓮が問いかけると、その猫は「にゃあ」と面倒そうに鳴き、足の間に寝そべった。
◇ ◇ ◇
やがて時間が来て、店員に促され、二人は席を立った。
凛々華は店を出ると、名残惜しそうに振り返る。
「ここに住むか?」
冗談めかして言うと、凛々華は一瞬きょとんとして——ふっと柔らかく笑った。
「それも悪くないわね」
その微笑に、また胸が熱くなる。
蓮はふと思いついて口にした。
「凛々華って、猫みたいだよな」
「え? どこがよ?」
怪訝そうに眉をひそめる凛々華に、蓮はニヤリと口角を上げた。
「最初は警戒心強いけど、慣れると甘えてくるとことか」
「っ……!」
顔を赤らめてそっぽを向く凛々華。
その指先が、ほんの少しだけ蓮の腕に向かって伸びたかと思うと——わずかに爪を立てた。
「お望みなら、引っ掻いてあげるけど?」
「望んでねえから」
蓮は慌てて手を振った。
「せめてチョップしてくれ」
「チョップならいいの?」
「引っ掻かれるよりはな。……最近、されてなかったし」
蓮が苦笑すると、凛々華は一瞬目を見開いたあと、イタズラっぽく瞳を細める。
「やっぱりマゾなのね」
「そういうのじゃねえって!」
蓮が慌てて否定すると、凛々華は楽しそうに、くすくすと笑った。
釣られるように、蓮も笑い出した。
ひとしきり笑うと、ふと沈黙が落ちる。
しかし、それはどこか心地の良い静けさだった。
「……ありがとな、凛々華」
蓮がそう言うと、凛々華は瞳を丸くさせたあと、照れたようにはにかんだ。
「こちらこそよ」
そうして、どちらからともなく手を繋ぐと、二人は夕陽に向かってゆったりと歩き出した。
◇ ◇ ◇
——翌日。
蓮と凛々華が教室に入ると、すでに文化祭準備は始まっていた。
「あっ、黒鉄君。柊さん」
「おはよー!」
扉の近くで作業していた亜里沙と夏海が、真っ先に気づいて声をかけてきた。
蓮と凛々華が挨拶を返すと、亜里沙があごに手を当てて、探るような眼差しを向けてくる。
「ふむふむ……二人とも、昨日デートしてたでしょ」
「えっ——」
蓮と凛々華は思わず立ち止まり、ぎくりと視線を交わした。
「やっぱり」
亜里沙は得意げに口元を吊り上げた。
「……なんでわかったんだよ」
蓮が半ばあきれたように問うと、亜里沙は肩をすくめて答える。
「雰囲気……ってのは半分冗談で、昨日は休日だったし、カマかけてみただけ。ほんと、二人ともわかりやすいよね」
「う……っ」
蓮は言葉を詰まらせる。
隣では凛々華がサッと顔を背けていた。その頬は、薄っすら桜色に染まっている。
「で? どこ行ったの?」
夏海が身を乗り出すようにして尋ねる。
「猫カフェだよ」
「おー、いいじゃん!」
「柊さん、猫好きって言ってたもんね。どうだった?」
「癒されたぞ。なっ?」
「えぇ。とても……良かったわ」
思い出しているのか、凛々華の頬が徐々に緩んでいく。
「わっ……柊さんのこんな顔、初めて見たかも」
夏海が驚いたように目を丸くし、すぐさま亜里沙が目を輝かせる。
「黒鉄君、昨日の柊さん、すごかったんじゃない? 写真とかない?」
「あるぞ——ぐふっ!」
何気なく携帯を取り出そうとした蓮の脇腹に、鋭い衝撃が走った。
「なんでだっ……」
「余計なことしようとするからよ」
そっぽを向いた凛々華は、耳までほんのり赤くなっている。
「理不尽だろ。つーか、二人もニヤニヤすんな」
蓮が夏海と亜里沙をじっとり睨むと、彼女らは顔を見合わせて笑い合った。
「いやぁ、別に黒鉄君がやられたからじゃないよ?」
「でも、やっぱり二人はこうでなくっちゃって思ってさ」
その言葉に、蓮はふと表情を和らげ、凛々華も小さくうなずいた。
「……また、心配かけたな」
「ごめんなさい」
蓮と凛々華が同時に頭を下げると、亜里沙がふんわりと笑った。
「ホントだよ〜。ま、二人はなんだかんだで大丈夫だと思ってるけど」
「うん。お互いのこと、大好きだもんねー!」
「「なっ……!」」
夏海の無邪気な言葉に、蓮と凛々華の顔がみるみる真っ赤に染まる。
その微笑ましい空気を破ったのは、亜里沙だった。
「ま、二人が仲直りしたのはいいんだけどさ。このクラスに真の平穏が訪れる日は来るのかね?」
彼女が目を向けた先では——
「あっ、ご、ごめん!」
「大丈夫だよ〜。ほら、一緒に直そ?」
「う、うん……」
樹が派手に道具をひっくり返し、心愛が必死にフォローしていた。
「桐ヶ谷君は、どうしたの? 告白前に呼び出されたときより、やばそうなんだけど」
「明日、初デートなんだってさ」
蓮は軽く肩をすくめた。ここ数日、いろいろ相談を受けていた。
「あっ、そっか。あそこ、デートなしで付き合ったんだよね」
夏海が納得したようにうなずくと、亜里沙がにやりと笑う。
「かたや、家を行き来しながらジレジレしてたやつらもいるのに——ぐえっ!」
今度は、亜里沙の脇腹に、凛々華のチョップが炸裂した。
「くぅ……やっぱり効く〜!」
「ダメだよ、亜里沙! そっち側にいっちゃ!」
「どっち側だよ」
亜里沙がツッコミを入れながら、夏海の頭をパシッと叩く。
「「……ぷっ」」
蓮と凛々華は同時に吹き出した。
一拍遅れて、亜里沙と夏海も弾けるように笑い出した。
笑いが満ちるその場の空気に、蓮は目を細めた。
(やっぱり、こういうのもいいよな)
もちろん、凛々華と二人きりの時間が一番好きだ。
昨日のデートのことを思い出すだけで、胸が幸せで満たされ、温かい気持ちになる。
けれど、樹と心愛も加えた六人の時間も、同じくらい気に入っていた。
プールで最後に撮った写真は、今でも時々見返しているくらいだ。
でも、どこかひと組でも関係が崩れてしまえば、ああいう楽しい日々は送れなくなるだろう。
(だから、頑張れよ、樹。何度も心配をかけてきた俺が言えた義理じゃないけど)
蓮は心の中で苦笑しつつ、そっと友人にエールを送った。
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