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第131話 同僚の涙と、無機質な連絡

 たっくんとその彼女は、テイクアウトのコーヒーを受け取ると、早々に店を出ていった。

 彩絵(さえ)は一言も発さず、出入り口をじっと見つめている。


「……伊藤(いとう)、大丈夫か?」


 (れん)が声をかけると、彼女はハッと我に返り、慌てた様子で頭を下げた。


「取り乱して、すんません……」


 ぎこちない笑みを浮かべながら言ったが、彼女の頬はわずかに引きつり、指先はかすかに震えていた。


「気付いたとは思うっすけど……さっきの、元カレなんすよ」


 か細い声だった。

 蓮は何も言わず、ただ静かにうなずいた。


 数秒の沈黙のあと、彩絵がぽつりと口を開く。


「いつからっすか? あの子と」

「一ヶ月経たないくらいかな」

「別れてから、結構すぐっすね……」


 彩絵はほろ苦い笑みを浮かべる。


「前のカフェで知り合って、付き合ってる間はよく来てくれてたんすよ」

「……もしかして、伊藤が前のバイト辞めたのって?」


 蓮がためらいがちに尋ねると、彩絵はこくんと小さくうなずいた。


「万が一でも、顔合わせたくなくて……。でも、あいつはやっぱりこういう店を選ぶんすね……っ」


 自嘲するように笑ったその瞳には、堪えきれない光が滲んでいた。


 蓮は黙って、ポケットからハンカチを差し出す。

 彩絵はそれを受け取り、顔を押さえた。


「すみません……ウチが慰められちゃって……っ。でも、大丈夫っす。すぐ元通りになるっすから……!」


 涙声を押し殺しながら、無理に笑おうとする。

 見ていられず、蓮はそっと言葉をかけた。


「無理しなくていい。全部、吐き出していいぞ」

「っ……」


 彩絵の肩が、小さく震えた。

 しばらくして、彼女はテーブルを見つめたまま、口を開いた。


「……きっかけは、くだらないことだったんすよ」


 ぽつりぽつりと、言葉をこぼす。


「本当に、日常的な喧嘩の延長で。でも、お互いに引けなくて……あとはもう売り言葉に買い言葉のまま、ウチが別れを切り出したんす」


 彩絵がグッと唇を噛みしめた。


「何回も、なんであんなこと言っちゃったんだろって後悔したっすけど……でも、浮気されるよりは、喧嘩別れでよかったのかもしれないっすね。ウチじゃ、やっぱりああいう子には勝てないっすから」

「——そんなことないだろ」


 蓮は即座に否定した。

 目を見開く彩絵に、力強く続ける。


「伊藤みたいな子のほうが好きなやつだって、いっぱいいる。絶対、いつかちゃんと出会えるよ。だから、そんなに自分を卑下するな」


 彩絵はしばらく呆然としていたが、ふっと目を細めて笑った。


「……はは、ちょっとやばいかもっすね」

「えっ?」


 蓮が首をかしげると、彩絵は慌てて首を横に振った。


「い、いや、なんでもないっす! ホント、気にしないでいいすからっ」

「……そうか」


 何を言ったのか気にはなったが、触れてほしくなさそうだったので、蓮は追求しなかった。

 彩絵は安堵したように息を吐くと、グラスの縁をなぞりながら、眉を下げる。


「ウチから言い出しといてアレなんすけど……今日の相談、また今度でもいいっすか?」

「ああ、もちろん」


 蓮は即座に頷いた。

 彩絵がますます身を縮こまらせる。


「本当に申し訳ないっす……」

「気にすんな。そう言ってくれただけでも嬉しいから」


 蓮がそう言って笑いかけると、彩絵は一瞬ぽかんとしたあと、目元を緩めてうなずいた。

 少しは元気づけることができたかな、と蓮は密かに安堵した。


 ——しかし、その翌日から、彩絵がよそよそしくなった。

 蓮以外の従業員には普通に接しているから、間違いなく慰めたことが原因だろう。


 当然、他の者たちも二人のぎこちなさに気づいたようだ。

 帰り道、凛々華(りりか)がふと口を開いた。


「蓮君」


 久しぶりに話しかけてくれた——。

 そう喜ぶには、いささか冷たすぎる声色だった。


「伊藤さんと、なにかあったの?」


 こちらに視線を向けないまま、尋ねてくる。


(話し合ってはくれないのに、そういうのは聞いてくるんだな)


「なにもねえよ」


 つい、ぶっきらぼうに返してしまった。


「……そう」


 凛々華はスッと瞳を伏せた。


 しまった——。

 蓮は自身の失態を悟り、慌てて付け加えた。


「本当だよ。(めぐみ)さんとかからも聞いただろ? 伊藤の元カレが来て、ちょっと取り乱してただけだ。凛々華が心配するようなことは、なにもないから」

「わかったわよ。しつこいわね」


 凛々華は突き放すように言ったあと、小さく息をつき、唇を噛んだ。

 なにかに耐えるような、それでいて後悔するようなその横顔に、蓮はかける言葉が見つからなかった。




 翌朝、アラームが鳴るよりも前に目を覚ました。


(今日、凛々華とのデートか……)


 そう思った瞬間、ため息が漏れた。


「……えっ?」


 蓮は自分自身に驚いた。今まで、こんなことはなかった。


(今の状態で、楽しめるだろうか……って、だめだ)


 押し寄せてくる不安を、首を振って追い払う。

 蓮が後ろ向きになっていては、解決できるものもできなくなる。


 凛々華は昨日の帰り際、相変わらず目線は合わせないままだったが、「また明日」と言ってくれた。

 今日のデート先は、付き合う前に恵からチケットをもらって訪れた水族館に併設されているカフェだ。


 凛々華も特に気に入っているようだったし、今日こそ話し合いに応じてくれるかもしれない。

 念の為、迎えの時間を確認するメッセージを送って、蓮は支度を始めた。


「こういうときこそ、ちゃんとオシャレしないとな……」


 髪の毛を整えていると、携帯が通知を鳴らした。凛々華からだった。


「……はっ?」


 蓮の口から、間の抜けた声が漏れた。


 ——ごめんなさい。今日のデート、また今度にしてもらってもいいかしら。


 そこに並んでいたのは、短く事務的なメッセージだった。

 まるで、ただ予定を伝えるだけのような、感情の温度を感じられない文面。


(嘘だろ……っ)


 呼吸が苦しくなり、なにも考えられなくなる。

 呆然としたまま、蓮はしばらくその場を動けなかった。


 ——ゴトッ。


「どうしたの? ……って、携帯落としてるじゃん」

「……あっ」


 遥香(はるか)の言葉で、先程の音が携帯の落下音だと気づいた。


「これからデートなんでしょ? ぼーっとしてるけど、大丈夫?」

「あぁ……」


 なくなったんだ——。

 たったそれだけのことが、言えなかった。


「……遥香はこのあと、暇だったよな?」

「えっ? うん。なにもないけど……」

「なら、悪いけど、今日だけ夕食当番代わってもらっていいか? 今度埋め合わせするから」


 戸惑いの表情を浮かべる遥香に一方的にそう言い残し、蓮は重い足を引きずって自室に戻った。

 開きっぱなしだったトーク画面に「わかった」という短い返事を打ち込む。

 すぐに既読はついたが、返信は来なかった。


「……はぁ」


 服を脱ぎ捨て、自身もベッドに身を投げ出した。

 予定を立てているときは、まさかこんなことになるとは微塵も思っていなかった。


『あのときは恵さんの指示だったけど、今度は俺の意思で、ツーショットを撮りたいんだ』


 蓮のその言葉に、凛々華は照れたように頬を染めつつも、うなずいてくれた。

 そして、そのときに写真を撮ってくれた外国人カップルの話などで盛り上がった。


 ……でも、もう夕陽の綺麗なあそこで写真を撮れる日は、来ないかもしれない。


『あとでまた着るからいいだろ』


 思い返されるのは、初めて凛々華とすれ違った日の自分の言動。

 凛々華の機嫌がよくないのはわかっていた。いくらでも、対応の仕方はあったはずだ。


(どうしてあのとき、言い返したりしたんだ……っ)


 昨日の帰り道だってそうだ。最初から丁寧に答えていれば、何かが変わっていたかもしれない。話し合いに誘うのだって、もっと別の言い方があったかもしれない。

 後悔の念ばかりが、次々と浮かんでくる。


 しばらく、何もする気にならずにベッドでゴロゴロしていると、再び携帯が通知を告げた。

 億劫に感じつつも、凛々華かもしれないと思って手を伸ばすと——


「伊藤……?」


 今度は、彩絵からだった。


 ——今日デートだったっすよね? 順調すか?


 心配して連絡をくれたらしい。どうやら嫌われてはいなかったようだ。

 キャンセルされた旨を伝えると、少し経ってから、電話がかかってきた。


『大丈夫っすか?』


 開口一番、心配そうな声が聞こえてきた。


「まあ、なんとかな」


 蓮が曖昧に答えると、彩絵は考え込むように沈黙した。

 それから、意を決したように言った。


黒鉄(くろがね)君……ちょっとだけでいいんで、今から会えないっすか?』

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