第119話 不意打ちの……
ミラは親の仕事の都合で転校してきた。
日本語はある程度話せたし、見た目もお人形のように整っていた。しかし、どこか控えめな性格だった。
だからこそ、宗太郎たちの標的になってしまったのだろう。
「思春期特有の、気になる女の子に意地悪したくなるってのもあったんだろうけど……一人で異国の学校に来たミラからすれば、そんな可愛いものじゃなかったと思う」
蓮は、最初はミラがいじめられていることに気づいていなかった。
しかし、宗太郎たちに絡まれているところに偶然遭遇し、その事実を知った。
「そこで注意したら、次の日から二人揃ってハブられてさ。自然と一緒に過ごすようになったんだ」
「なんだか、聞いたことがある話ね」
「凛々華に仲間にならないかって言われたとき、実はちょっとデジャヴを感じてたよ」
蓮は苦笑した。
「それまではあんまり接点なかったんだけど、意外と気が合ったんだ。それからしばらく経って……告白された」
凛々華は眉間にシワを寄せたが、何も言わない。
「俺もミラといる時間は楽しかったから、オーケーしたんだ。ごめん、前に付き合ったことないって、嘘ついて」
「別に、そんなのは些細なことよ。それより……」
凛々華は言いにくそうに語尾を濁した。
「あぁ。それは嘘だった。……ミラは宗太郎たちから、『俺に嘘告白をしたらもういじめないでやる』って言われてたんだ」
「っ……!」
凛々華が唇を噛みしめた。
指先もかすかに震えており、紫色の瞳の奥には怒りが滲んでいた。
それでも何も言わないで耐えているのは、ある程度、予想がついていたのだろう。
蓮はふっと自嘲気味の笑みを漏らした。
「結局、俺はあいつらの手のひらの上で転がされてただけだったんだよ」
ミラのことは別に恨んでいない。彼女は自衛しただけだ。
それに、当時はまだやんちゃもしていなかった蓮では、もし宗太郎たちによるいじめが再燃しても、彼女を守れるだけの力はなかっただろう。
「まあ、そんなことがあって、立場は逆だけど、同じような状況だったからさ……。また裏切られるのが怖くて、凛々華のことも、あえてそういう目で見ないようにしてたんだと思う。不安にさせて、本当にごめん」
蓮は視線を下げた。
——無意識に固く握りしめていた拳を、温もりがそっと包み込んだ。
蓮が思わず顔を上げると、こちらを見つめる優しい眼差しがあった。
「蓮君が謝ることなんて、一つもないわ」
「凛々華……」
蓮の声はかすれていた。
凛々華はふっと表情を和らげたあと、グイッと蓮を引き寄せた。
「えっ?」
蓮は声を裏返らせた。
頬に柔らかくも弾力のある感触が押し当てられ、鼻先を甘い匂いがくすぐる。
「こうしていると、安心するでしょう?」
「いや、むしろ落ち着かねえって……っ」
頭上から、クスッと笑う気配がした。
「甘え下手ね」
「まあ……あいにくと、そんな相手はいなかったからな」
「っ——」
凛々華がピクッと肩を震わせた。
ややあって、その手が優しく蓮の頭に添えられる。
「これからは、甘えることも覚えなさい。私じゃ、頼りないかもしれないけれど」
「そんなことねえよ。……頼りにしてる」
「……そう」
凛々華の指が、そっと蓮の髪をすく。
こそばゆいけれど、それ以上に気持ちが落ち着いていくのを感じた。
蓮はしばらくそうしていたが、頭がクリアになってくると、抱きしめられて胸に顔を埋めているという事実を、強く認識してしまう。
女の子特有の弾力も、ほんのり甘い香りも、一度気にしてしまえば、見て見ぬふりなどできるはずもなかった。
(っまずいな……)
安らいでいたはずの心が、ざわめき出す。
抑えが効かなくなる前に、蓮はゆっくりと凛々華から離れた。
「大丈夫?」
「あぁ……サンキュー。今度は本当に、気が楽になったよ」
「……それなら、良いのだけれど」
凛々華がじっと蓮を見つめたあと、目元を緩めた。
しかし、ふと真剣な表情を浮かべる。
「それで、これからのことなのだけれど……いきなり全面的に信頼しろ、と言っても、難しいでしょう?」
「……ごめん」
凛々華からの愛はしっかりと伝わってきている。
それなのに、やはり心のどこかで、蓮は踏み込むのを恐れていた。
「謝る必要はないし、無理はしなくていいわ。むしろ、絶対にしないで」
「あぁ……ありがとう」
「でも——」
凛々華が語気を強める。
「いつまでも中途半端なのも、嫌よ」
「そうだよな……」
蓮が思わずうつむくと、布のこすれる音がした。
「——だから、私が信じさせてあげる」
その言葉に蓮が顔を上げた瞬間、唇を塞がれていた。
「っ——!」
(キス、されてる……⁉︎)
実際には、一秒にも満たなかったのかもしれない。
しかし、蓮にはその時間が永遠に感じられた。
凛々華は唇、そして蓮の頬に添えていた手をゆっくりと離した。
首元まで真っ赤だった。——それでも、彼女はまっすぐ蓮を見つめていた。
視線を逸らしたのは、蓮が先だった。思わずソファーに顔を押し付ける。
心臓の鼓動だけがやけに響いていた。頭の中は真っ白になっていて、何も考えられない。
「ちょ、ちょっと待て……!」
口から漏れるのは、意味をなさないうめき声。
「多少の荒療治は、必要なようだから」
凛々華の声は、どこか得意げだった。
それからしばらく、蓮はソファーにうずくまっていた。
「それで、蓮君」
蓮が少々回復すると、凛々華が改まった声を出した。
「なんだ?」
「あなたのせいではないとはいえ、ちょっと興が削がれたのも事実よ。——次は、期待していいのよね?」
遠回しのデートのお誘いであることは、鈍感な蓮でもわかった。
「あぁ……もちろん」
蓮は頬が熱を持つのを感じつつも、今度は目線を逸らさなかった。
それだけでも、意思は十分に伝わっただろう。しかし、蓮はどこか物足りない気がした。
「……絶対に、楽しませるから」
「っ——!」
凛々華が息を呑み、うつむいた。
「いきなりなんなのよ……っ」
スカートの端をつまみながら、何やらぶつぶつとこぼしている。
少しだけペースを取り戻せた気がして、蓮は心の中で小さくガッツポーズをした。
◇ ◇ ◇
私が信じさせてあげる——。
その宣言の通り、凛々華はこれまでよりも積極的になった。
翌日のバイト終わりの夕方、二人は凛々華の部屋で、ベッドに並んで腰かけて映画を見ていた。
二人の距離は、最初からほんの少し近かった。
映画が終わるころには、自然と寄り添っていた。
凛々華が、蓮の肩にこてんと頭を預けてくる。
「別に……甘えたいとか、そういうのじゃないけど……こうしていると落ち着くわ」
凛々華が言い訳をするようにつぶやいた。
しかし、視線は背けられ、体にも力が入っている。
「っ……」
緊張を隠せていないその様子に、蓮の胸は締め付けられた。愛おしさが込み上げてくる。
しかし同時に、彼女に主導権を握られているというのも、なんとなく面白くなかった。
「ドキドキは、してねえのか?」
「えっ……」
凛々華は一瞬きょとんとした顔を向けてきたが、すぐにそっぽを向いて、
「べ、別に、そんなの——」
早口で誤魔化そうとする。
しかし、途中で言葉を切ったあと、ゆっくりと深呼吸をしてから、小さくつぶやいた。
「するに決まってるでしょ……恋人なのだから」
それはほんのささやきだったけれど、蓮には十分すぎるほど伝わった。思わず心の声が漏れていた。
「……かわいい」
「なっ……!」
凛々華が目を見張り、息を呑んだ。
耳の先まで朱色に染まったその様子に、蓮は満足感を覚えた。
しかし、ふいに凛々華が視線を伏せる。
「……別に、あなたは無理して言う必要はないのよ」
「無理なんてしてねえよ」
蓮は自然にそう返していた。
「これまでも、むしろ……もっと言いたかったくらいだから」
「っ……! 本当に、もう……っ!」
凛々華が両手で顔を覆うが、口角が上がっているのを蓮は見逃さなかった。
すぐに克服できるほど、トラウマというのは易しいものではない。
それでも、凛々華がこうして照れてくれていると、蓮も自信を持つことができた。
そっと肩に手を回して、より肌と肌を触れ合わせる。
凛々華はビクッと体を震わせたが、おずおずと体重を預けてきた。
「なあ、次のデート、どこか行きたいところとかあるか?」
蓮が水を向けると、凛々華は一拍おいてから、小さくうなずいた。
「映画とかカフェもいいけれど……たまには、もう少しアクティブなこともしてみたいわ」
「アクティブか……」
蓮は少しだけ考え込み、それから勇気を出して口を開いた。
「……じゃあ、プールとか、どうだ?」
「えっ——」
凛々華の目が見開かれたあと、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。
「あの、えっと、プールは……っ」
ぎこちなく紡がれるのは、否定の言葉。
浮ついていた蓮の心が、急速に冷えていく。
「あっ、ごめん。嫌だったよな。無理にとは——」
「ち、違うわ!」
凛々華は慌てたように言葉を遮り、胸元を押さえるようにしながら、顔を真っ赤にして続けた。
「嫌なわけではなくて、その……」
凛々華は布団の縁をぎゅっと掴んだ。
視線を逸らしたまま、勇気を振り絞るように続けた。
「二人きりは、その、少し早いというか……っ」
(……あぁ、そういうことか……)
蓮は安堵の息を吐いた。
しかし次の瞬間には、胸の奥の熱に突き動かされるように、凛々華を抱きしめていた。
「れ、蓮君?」
凛々華が困惑の声を上げた。
「ごめん……ちょっとだけ、こうさせてくれ」
蓮は凛々華の首筋に顔を埋めると、彼女の体はギシっと固まった。
しかし、徐々に慣れてきたのか、そっと蓮の背中に腕を回してくる。
しばらくの間、二人は無言のまま、お互いの温もりを確かめ合っていた。
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