第117話 過去の記憶
傾く日差しが、足元の影を長く引き伸ばしていた。
それを見つめながら、蓮はぽつりとつぶやく。
「初音が落ち込んでるなんて、全く気づかなかったな」
「……えぇ」
凛々華もほんの少し視線を伏せている。
「違和感は、ちょっと覚えてたんだけどな」
「私たちは、彼女がそういうネガティヴな感情と無縁だと、勝手に思い込んでいたんでしょうね」
「……そうだな」
二人は揃ってため息を吐いた。
帰り際、心愛から別れたという報告とともに、今日一日無愛想な態度を取ってしまったと謝罪を受けた。
蓮と凛々華はなにも気にする必要はないと伝えたあと、反対に「普段から助けてもらっているのに、気づけなくて申し訳ない」と謝った。
「少しでも悩んでたりしたら、言ってくれ」
「できる限り、力になるわ」
蓮と凛々華はそう申し出た。
心愛は大袈裟だと遠慮したが、こちらが譲らない姿勢を見せると、「二人とも頑固だなぁ」と折れてくれた。
「でも、そうだね。もしかしたら、今後頼らせてもらうかも」
そう言って笑う深海のような青色の瞳には、どこかイタズラめいた光があった。
「思ったよりは落ち込んでないように見えたけど……これも、バイアスかかってるのか?」
蓮が問いかけると、凛々華は考え込むようにあごに手を当てた。
「いえ……私もそう感じたわ。もしかしたら、今後頼らせてもらうかもと言っていたことと、何か関係があるのかもしれないわね。いずれにしろ、初音さんのことはちょっと気にかけておきましょう」
「そうだな」
蓮は力強くうなずいたあと、一転して歯切れ悪く切り出した。
「……そういえば、今度の休みって、何か予定あるか?」
蓮と凛々華の主な予定は、文化祭準備とバイトだ。
どちらも同じシフトなので、必然的に休みも重なることになる。
「特にないけれど」
「そっか……じゃあ、また、どっか行かねえか? 凛々華の気が進まないなら、全然いいんだけど」
蓮が控えめにデートの誘いをかけると、凛々華が呆れたようにため息を吐いた。
「——蓮君」
「あっ、はい」
得体の知れない圧を感じて、蓮は思わず畏まった。
凛々華がじっとりとした目線を向けてくる。
「私と水嶋さんのやり取り、聞いていなかったのかしら?」
「あっ……」
——でも、そんなのなくてもデートくらい行くのにねぇ。ね、柊さん?
——そうでなければ、そもそも付き合ったりしないわ。
テストの報酬で誘ったという話をしているときの、凛々華と夏海の会話が、脳裏に蘇る。
蓮は耳の裏をかくようにして、顔を少し伏せた。
「……ありがとな」
その一言に、凛々華は少し驚いたように瞬きをしたあと、ふいっと視線を逸らす。
「……別に、お礼を言われるようなことではないと思うのだけれど」
その横顔は、どこか拗ねたようにも照れているようにも見えて、蓮は思わず頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
「……はぁ」
デート先であるカフェまでの行き方を確認して、蓮は吐息を漏らした。
場所は、かつて自分が通っていた中学の近く。デートプランを立てているときに、凛々華がSNSで見つけたカフェだ。
(よりによって、あの辺か……)
思い出そうとしなくても、かすかに胸が重くなる。
けれど——
(でも、関係ねえよな。今日は凛々華と行くんだし)
そう自分に言い聞かせると、心の曇りがゆっくりと晴れていく。
彼女と一緒ならどこでも構わないと、本気で思える。
(我ながら、なかなか重症だな)
「……兄貴、ニヤニヤしててキモいんだけど」
遥香が、ソファーから冷ややかな眼差しを向けてくる。
「……自覚はしてる」
「意外と重いタイプ?」
「かもな」
蓮は肩をすくめた。
遥香がソファーから身を乗り出し、ニマニマと笑う。
「束縛強いと嫌われるよ〜?」
「わかってるっつーの」
妹の頭をコツンと叩き、蓮は家を出た。
これからデートだと思うと、自然と足取りは軽くなる。
浮かれていて油断していた、というのもあっただろう。
「お、おはよう」
「っ……!」
インターホンを鳴らした直後に現れた凛々華を見て、蓮は思わず言葉を失った。
柔らかい紫髪の中に、ひときわ涼やかな水色が揺れていた。——蓮が以前のデートでプレゼントした、髪留めだった。
「それ、つけてきてくれたんだな……めっちゃ似合ってる」
蓮が夢見心地でつぶやくと、凛々華は頬を染めながら、早口で言い訳を始める。
「せ、せっかくだから、付けないともったいないもの。いい食器も、棚に飾ってあるだけなら価値が半減してしまうでしょう?」
「まあ、確かにそうだけど」
(これ、思った以上にやべぇな……っ)
可愛いのはもちろん、デートに自分のプレゼントを身につけてきてくれることが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
「じゃ、じゃあ、行くか」
ニヤける口元を隠すように踵を返した、その瞬間——、
凛々華の指が、そっと蓮の手を取った。
「っ……」
思わず足が止まる。
「ふふ、蓮君って意外とウブよね」
「っ——!」
揶揄ってくる凛々華の頬も赤いが、それを指摘できる状態でないのは、蓮も自覚していた。
「……意外って、なんだよ」
結局、口からこぼれ落ちたのは、子供じみた反論だった。
「いえ、もう少し慣れていると思っていたわ。やんちゃもしていたようだし」
「そんなパリピ集団じゃなかったって。ただの半端者の集まりだよ」
蓮は苦笑いを浮かべた。
凛々華は少し間を置いて、尋ねてくる。
「じゃあ、これまで彼女はいなかったのかしら?」
——蓮君。
凛々華に問われたその瞬間、脳内に一つの声が響いた。
「っ……」
胸が締め付けられるような感覚を覚え、息が詰まる。
記憶を振り払うように、蓮は首を横に振った。
「……いねえよ」
「……ふーん?」
凛々華の疑うような眼差しが、じっと見つめてくる。
蓮は慌てて切り返した。
「そういう凛々華こそ、どうなんだよ?」
「あいにくと、あなたが初めてよ。彼がいる中で私に告白してくる人なんて、ほとんどいなかったもの」
彼とは、幼馴染の金城大翔のことだろう。
家族ぐるみの付き合いで、大翔の両親にも恩があったため、凛々華は蓮と行動をともにするようになるまで、彼と登下校をしていた。
蓮もずいぶんと絡まれたが、凛々華に比べれば、受けた被害など無に等しいだろう。
「……悪いな。嫌な記憶を思い出させて」
蓮が視線を下げると、凛々華がどこか柔らかい表情を浮かべる。
「もう過去のことだし、彼のことはなんとも思っていないわ。むしろ、こういう言い方はあなたに失礼だけれど……今となっては、少し感謝しているくらいよ」
凛々華は淡く口元を緩めた。
肩の重荷を降ろしたような、晴れやかな表情だ。
「どういうことだ?」
蓮が首を傾げると、凛々華は視線をそらした。
ほんのりと頬が染まり、囁くように言う。
「だって……彼がいなければ、私と蓮君は、今でもただのクラスメイトだったのかもしれないもの」
「っ——!」
蓮は息を呑んだ。
頬がじわじわと熱くなり、咄嗟に顔を背ける。
「蓮君?」
「い、今は見ないでくれ……っ」
蓮はつないでいないほうの手で、顔を隠した。
「——ふふ」
隣で楽しげに笑う気配がして、蓮はさらに赤面することになった。
もしも彼が熱中症で倒れることがあれば、その原因は間違いなく隣を歩く少女だろう。
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