第111話 彼女の部屋にお邪魔した
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目的の家——柊家の前まで来ると、蓮は一度立ち止まり、大きく深呼吸した。
緊張とわくわくが胸の奥で混ざり合い、心臓が素早く脈打っている。
インターホンの前に立ち、背筋を伸ばして「よし」と小さくつぶやくと、意を決して指を伸ばした。
——ピンポーン。
電子音が鳴ってすぐに、扉が音もなく開く。
「……よう」
「えぇ……」
蓮と凛々華は、ぎこちない挨拶を交わした。
お互いに、なんとなく視線を逸らしてしまう。
その場に少し気まずい空気が漂ったのを感じて、蓮は慌てて視線を凛々華の後ろに移した。
そこには、穏やかな表情の詩織の姿があった。
「詩織さん、お邪魔します」
「来てくれてありがとうね」
凛々華の母は、にこやかにうなずいた。
蓮の肩から少しだけ力が抜ける。だが同時に、背筋にうっすらと汗がにじんでいた。
靴を脱ぎ、洗面所で手洗いうがいを済ませたあと、リビングへと戻った。
詩織に向き直って一礼し、蓮は切り出した。
「あの、凛々華さんから聞いていると思いますが……俺たち、付き合うことになりました」
その言葉に、詩織は微笑を深めた。
「えぇ。聞いてるわ」
そして、優しく目を細めながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「凛々華を、よろしくね?」
「はい。大切にします」
「っ……!」
蓮が真剣な表情でうなずくと、凛々華は頬を染めてもじもじとうつむいた。
(……あ)
それを見て、蓮の頬にもじんわりと熱が集まる。
「ふふ」
詩織はニコニコと微笑んでいる。
その視線は温かく、揶揄いの色はない。
蓮は余計にいたたまれない気持ちになった。
どうやら、それは凛々華も同じだったようだ。
「じゃ、じゃあ、行きましょう」
「お、おう」
まるでロボットのように不自然な動きで、二人は階段を上っていった。
「……どうぞ」
凛々華がややこわばった表情でドアを開ける。
蓮を出迎えたのは、柔らかい色味のぬいぐるやクッションだった。
どこか可愛らしいその空間は、凛々華の普段の雰囲気とは異なる。
しかし、それが妙に彼女らしく感じられて、蓮は無意識のうちに立ち止まって見入っていた。
「なんか、ちょっと意外だな」
「な、なによ。変だっていうの?」
「いや、思ったより可愛らしいっつーか」
「っ……!」
凛々華が息を詰めた。
「の、飲み物取ってくるから、ゆっくりしていて」
口調こそ澄ましていたが、逃げるように部屋を出て行く彼女は、耳の先まで真っ赤だった。
残された蓮は、ひとつ息を吐いた。
(告白した日は、もう少し自然だったんだけどな……)
結ばれた高揚感や勢いもあったのだろう。今のほうが、よりお互いに意識してしまっている。
(けど、なんとも思ってなきゃ、こうはならないもんな)
間もなくして、凛々華がお茶とお菓子をトレーに乗せて戻ってくる。
その頬はほんのりと色づいたままだ。
「と、とりあえず、宿題やるか?」
「そ、そうね」
机は広くて、ふたりで並んで座っても余裕がある。
「聞きたいところあるって言ってたし、まずは数学にするか?」
「えぇ」
凛々華が整頓された棚の中から、教科書とノートを取り出した。
「……柊」
「なによ?」
「そのノート、英語じゃね?」
「っ……!」
凛々華の動きがぴたりと止まった。
確認するように目線を落とした彼女の頬に、みるみる朱が差していく。
「……見間違えただけよ」
少し早口でそう言いながら、ノートを入れ替えようとする。
だが、指先がわずかに震えているせいか、少し手間取っていた。
無事に青色の数学ノートを取り出すと、凛々華は居心地悪そうに髪を耳にかけた。
「意外とおっちょこちょいだよな、柊って。前も地学と生物の教科書間違えてたし——」
「黙りなさい」
静かに放たれた一言とともに、鋭く的確な手刀が蓮の脇腹に命中する。
「ぐふっ……!」
蓮が悶絶してうずくまるのをよそに、凛々華はそっぽを向いたまま鼻を鳴らす。
だがその頬はかすかに緩み、耳の先もほんのり色づいていた。
(でも、指摘したらまた脇腹チョップされるよな……)
蓮は口角が上がりそうになるのを抑え、自身もノートを広げてペンを持った。
最初こそ多少のぎこちなさはあったものの、問題を解き始めると、自然といつもの空気に戻っていった。
「そこはこの公式で——」
「その文法は——」
苦手なところを教え合いながら、着実にタスクを片付けていく。
蓮も凛々華も、自然に言葉を交わせるようになっていた。
——だが、心のどこかで、蓮は別の感情を抱いていた。
(……付き合って初めてのデートだってのに、これでいいのか……?)
問題に向かうふりをしながら、隣にいる凛々華を横目で盗み見た。
蓮のことなど視界に入っていないように、スラスラとペンを走らせている。
(……なんか、面白くねえな)
とはいえ、勉強の邪魔をしたいわけではない。集中を途切れさせられたら、真面目な凛々華は嫌がるだろう。
付き合ってから初めてのデートなのだ。ヘソを曲げられたくはない。
(でもな……)
モヤモヤした思いを抱えつつも、蓮がその綺麗に揃えられたまつ毛や、さらりと垂れる紫髪を黙って見つめていると——、
ふと、凛々華が顔を上げた。
「「っ——!」」
ばちりと目が合い、二人は同時に目を逸らした。
「……なぁ、ちょっと休憩しねえか?」
言い訳のように蓮が口にすると、凛々華は一瞬だけ目を見開いた後、小さくうなずいた。
「別にいいけれど……少しなら」
ベッドの縁に並んで腰かける。
蓮は面接前のようにピンと背筋を伸ばし、凛々華も手を膝の上に揃えて置いていた。
しんと静まり返った部屋の中に、かすかな布の擦れる音が混ざる。
その瞬間——。
ひんやりとした指先が、そっと蓮の小指に触れた。
蓮が思わずそちらを見ると、凛々華は視線を伏せたまま、唇をぎゅっと引き結んでいた。
しかし、指を離そうとはしない。
じんわりと胸の奥に熱が広がり、自然と肩の力も抜けていった。
蓮は同時に、もう少しだけ、彼女に触れたくなった。
(これくらいは……いいよな?)
無意識に息を詰めながら、おそるおそる指を絡めた。
「っ……!」
凛々華はビクッと肩を揺らした。
少しだけ間を置いてから、視線は逸らしたまま、おずおずと握り返してくる。
蓮はホッと息を吐き出した。
凛々華の指先はすべすべしており、手のひらもどこか柔らかい。
ドキドキと脈打つ鼓動が、互いの手を通じて伝わってくるような気がした。
(今日は、これくらいでも十分か……)
蓮がそんなことを思っていると——、
凛々華が、ためらいがちに頭を預けてきた。
「っ——」
蓮は胸が高鳴るのを感じながら、その華奢の肩に手を回し、優しく抱き寄せた。
ふわりと香るシトラスの匂いと、肩越しの柔らかな温もりが、凛々華の女性としての魅力を存分に伝えてくる。
蓮とて聖人ではないし、何も感じないわけでもない。胸の奥には、確かに小さな火が灯っている。
しかし、それは情欲の炎ではなかった。まるで湯船に浸かっているときのように、心は安らいでいた。
凛々華も、穏やかな表情でそっとまぶたを閉じている。
きっと、これまでは拒否されるかもしれないという不安もあったのだろう。
——そう思うと、途端に愛おしさが込み上げてきた。蓮は凛々華の肩に添えていた手に力を込めた。
その想いは伝わったようで、凛々華は喉を鳴らし、抑えきれないように口角を上げた。
言葉のない時間が、むず痒くも心を満たしてくれるようだった。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
蓮はふと、時計に目を向けた。文化祭準備の開始時間が迫っていた。
「……もう、行かないとな」
「……えぇ」
蓮は未練を断ち切るように勢いよく立ち上がり、軽く伸びをする。
ふと隣を見ると、凛々華も全く同じ所作をしていた。
蓮は自然と笑みを浮かべていた。
「ベッドに座ってるのって、意外と体固まるよな」
「そうね」
凛々華もくすりと笑った。
それから、ふと真面目な表情になり、硬い声で切り出した。
「そういえば今日、藤崎さんも来るのよね」
「あぁ……あの日以降、ずっと休んでたのにな」
結菜は本性をさらけ出して以降、文化祭準備にも顔を出していなかった。
それが、昨晩に突如として、クラス全員に集合をかけたのだ。
「何をするつもりなんだろうな」
「……もう、暴走することはないと思うけれど」
凛々華は窓の外に遠い視線を向け、静かにそうつぶやいた。
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