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結局、二時間目の世界史の授業は、出席番号一番君とトリコロール教師の白熱する真剣喋り場劇場に大半の時間を取られて、流れ作業のように自己紹介して(この時、出席番号の後ろから指名されたのは、教師があれ以上出席番号一番君と話したくなかったのだろうという所と、また二度目の掛け合いが始まらないように配慮したのだろう)、ちょびっと世界史の授業に入って終わった。
なんだろう、気分的にはもう放課後でも良くね?と思う程濃い時間だった。俺は何もしてないけどな。
俺は現在、今朝方購買で用意したパンと飲み物を抱えて、一人、だだっ広い校舎内を闊歩している。周囲に人気はなく、多目的教室棟側だからか、或いは今の時間が昼休みだからか、通り過ぎる教室内にも誰かの影はない。
とは言え。
ふむ。
これは、どうしたものか。
一瞬、ほんの一秒くらいの、瞬きの合間。
誰かの視線を感じたなんて。
「……真昼間から、幽霊でも出んのかこの校舎」
そう嘯いて、「誰もいない」廊下を渡りきる。
そして、俺は辿り着いたその場所の扉を躊躇なく開け放った。
ギィイ……。
油が引かれていないのか、メンテナンスの問題か。はたまたこの学園の校舎自体が時代錯誤な大正ロマンもどきの和洋折衷様式の造りだからか―――、立て付けの悪い扉が相応の音を立てて開いた。
第三音楽室。
豪奢なプレートには、そう記されており、だけど数字が示すように、この教室は普段の利用率が低い空き教室同然で。
俺達が利用するクラスの教室は大概引き戸なのだが、こういった多目的棟の教室はドアが多い。ドアノブを回して押し開けた音楽室内は、白い埃除けの布が幾つも掛けられていて、椅子が数脚点在しているだけで伽藍としていた。踏み入れた床にはうっすらとだが埃が溜まっており、まあ、そこまでメンテナンスをサボっているわけでもないようだなとボンヤリ思う。一年に一度大掃除するくらいならもっと埃も汚れも溜まっているだろうし。埃が舞わないかとも思うが、空気の入れ替えくらいはするかと窓際に立って窓を開けると、裏庭が目に付く。それに俺はへえと口角を上げて目を細めた。
窓を少し開けると俺はその場から離れて、幾つかある椅子の内に近かった方の椅子の埃を払って座る。
膝に広げるのは、今日の俺の昼食。
パンの袋を開けて一口。
「ん、美味い」
誰もいない音楽室に俺の呟きが意外と響いた。あ、音楽室だからか?
音もなく、空気も停滞していて、時間すらも止まっていたかのような、静かな音楽室。
その場に居ると、俺の時間もゆっくりと揺蕩って行く気がして、瞼を閉じてみる。
窓を少しだけ開けた事によって、若干外気と音が漏れ込んでいるが、心地が良い。本当は外に出て陽光の下で昼食を取っても良かったのだが、山奥に建つこの学園は、四月という事もあって気温が上がりきらない。それに、人気のない場所のどこにベンチがあるのかも知らないから、それはまた今度にしようと思う。この学園の散策も済んでないしな。
俺がわざわざこんな誰もいない場所で一人昼食を摂っているのは、この学園に食堂がないからではない。寧ろ、マンモス校だから、大きな食堂が幾つかある。だけど、乙女ゲーム知識や、漫画やゲームで得た知識に寄れば、そういう場所は大概煩いし、確か『聖アールグレイ学園』のイベントの場所の一つに食堂があったからだ。そんなイベントフラグがいつ立つのかも知れない場所にわざわざ行く程、俺は馬鹿じゃない。それに、どこの食堂かもゲームにはなかったから判断しようもないからな。あと、値段が馬鹿高かったような気がする。苦学生やっている庶民の懐にはとてもじゃないが毎日毎食出せるお優しい値段じゃないのである。購買のものは割と安価な物があるが、だからといって毎月入れられる生活費の額を考えると、毎回購買で済ますのも栄養面から考えても如何なものかと思う。まあ、前世じゃ独り身が板に付いていたから自炊してたし、今世でも自分の食事は自分で用意していたから、今後は弁当とか作るかと結論を出す。只でさえ、見た目も中身も女子力が低いのだから、せめてそういう所でレベル上げしないとな。「俺」は男だけど、「私」は女だし。
慎ましい食事も終わり、ゴミを袋に入れて片づけが終わった俺はふーっと長い息を吐いて、伸びをする。
「さてっと」
問題です。入学式の途中でぶっ倒れて場所案内などのガイダンス、オリエンテーションを受けていない俺がどうしてこんな穴場がある事を知っていたのか。
答えは、『聖アールグレイ学園』のゲーム知識です!
うん、意外性も面白味もない解答だな。
まあ、とある一文に、学園内で人があんまりいない場所について言及しているシーンがあったのを思い出しただけなんだが。後は、見るからに普段使われてねーだろっていう数字の空き教室。入ってからは埃と立てつけの悪い扉、停滞した空気に、「此処なら良いじゃん」と納得してこの場所で昼食を摂っていたわけだが。
俺が死ぬ羽目になった巻き込まれイベントは、時期的にまだまだだから大丈夫ではあるのだが……今の乙女ゲーム進行がさっぱり読めていない現状、いざという時にこういった場所の情報は必要だから今後は学園内の探索をメインに時間を中てようと思う。うっかり巻き込まれたら嫌だしな。
……入学式から二日目なのだが、俺は一個も四季恋華がイベントに当たっているのを見た事がない。
巻き込まれるのは嫌だし、学園内の地理を把握するのは最優先事項だし、此処の生徒の情報収集も死亡フラグから完全に逃げ切る上では必要不可欠なのだが………肝心のゲームの進捗状況が分からないのはちょっとヤバいような、拙いような、そんな気がする。俺と私はどちらも直感型の人間なので、こういった本能的な何かを感じると、それに従って行動してきた。つまりは、この予感に似た考えは、これまで生きてきた年月同様馴染深くもあり、信用できるモノで。
この世界が『聖アールグレイ学園』であるならば、第一幕であるオープニングイベントが始まっていなければ可笑しい。まあ、一応始まっている筈である。だって、上杉誠也のクラスに四季恋華はいて、またクラスメイトの皇煌夜がいたのだから。布陣は整っているし、駒も揃っている。入学式を迎えた時点で、ゲームは始まっている。それだと言うのに、この得も言えぬ不安感。
俺は、今日の二時間目が始まる前までは、乙女ゲームは順調に進んでいるのだろうと思っていた。だってこの世界は『聖アールグレイ学園』–––乙女ゲームなのだからと。
まるで、目に映るものが全てであるかのように、当たり前の事だと信じて何も考えていなかったのだ。思考の放棄。それは、俺が死にたくなければ、決して、してばならない愚行。
ソレに気付かせてくれたのが、イケメン共だと思うと、舌打ちしたくなるが。
「トリコロール教師と一番君、どっかで見た事あんだよなー」
そう、ソレ。
乙女ゲームの攻略対象達は一般的な美形の更に上のレベルの強者揃いなのだが、世界史の教師・櫻朔夜と一番君(名前は今日の授業で毎回行われる自己紹介で覚えたが割愛)はそれに匹敵する整った容姿とキャラだった。まあ、美醜や好みは人それぞれではあるのだろうが、この二人は「私」の目から見ても間違いなく乙女ゲームの攻略対象として遜色ない人材だった。だけど、この二人は、乙女ゲームに登場してない筈である。スチルも、名前も、勿論攻略対象の友人枠での登場とかでもなく。俺と同じ脇役で、登場がない真の背景カテゴリの輩。
でも、俺の記憶では確かに出て来なかった筈の、この二人を、俺は見た事があるし知っているような気がするのだ。
To be continued…?




