第9話
物語が少し動き始めます。
「ここに住め」
「……えっ?」
一瞬、耳を疑った。
その日、納品の帰りにいつものようにカイの工房へ寄った私は、思いもよらない言葉を聞かされた。
(なんて言った? 今の、空耳だよね?)
目の前にいる男は、相変わらずの無愛想さで、椅子に腰掛けたまま手元の作業に集中している。新しく組み立てているらしい魔道具の枠を慎重に削っているが、その口から飛び出した言葉は、どう考えても、あまりにも唐突だった。
「今の……何て?」
「聞こえてたろ。ここに住めって言った」
「いやいや、え、ちょ、待って! なにそれ、なんで!?」
私は慌てて声を張り上げた。思わず腰を浮かせてしまうほど、心臓が跳ねている。
冗談? いや、この男は冗談なんて言わない。そこがまた厄介だった。
「来るたびに疲れた顔してる。だったら通うな。ここに居ろ。それだけだ」
「なにその理屈! いや、私、生活もあるし!」
「あるだろうな。でもそれはここでもできる。最低限の部屋は空いてる」
あまりにも当然のように言うものだから、逆にこっちの頭が追いつかない。
「ちょっと待ってよ……そもそも、同居ってことでしょ? それって、普通じゃないよ?」
サフィアが声を荒げても、カイは手を止めな買った。けれど、次の瞬間、ふとこちらを見て、面倒くさそうに眉をひそめた。その表情はどこか真に迫るものだった。
「アンタ、なんでそんなことを私に――」
「いいから。まずは言うことを聞け。話はそれからだ」
遮るように返された低い声に、サフィアの言葉が詰まる。いつもは気だるげで気分屋な声が、今日はやけに静かで、重かった。言葉の端々に滲む、焦燥……いや、違う。それだけじゃない。
本気だ。
冗談ではなく、試すつもりでもない。理由も説明もないくせに、なぜか『絶対にそうしてほしい』という意志だけが真っ直ぐに伝わってくる。
混乱と、困惑と、少しの怖さ。けれど、心のどこかで、彼の声を無視できない何かが引っかかっていた。
「……住めって、どういうこと?」
サフィアは口の中で反芻するようにその言葉を繰り返した。言葉の意味はわかる。でも、それを言う意味はわからなかった。
「そのままの意味だ。ここに住め」
カイは背を向けたまま、作業台に何か部品を並べていた。いつものことだ。肝心なときほど、あの男はこっちを見ようとしない。
「私、ここの担当 なだけであって、アンタのものじゃないんだけど」
「知ってる」
返事が早すぎて、逆に何も言えなくなる。
「……ふざけてる?」
「本気だ」
ぴたりと動きが止まり、カイがようやく振り返る。その顔に、いつもの皮肉げな笑みはなかった。
「この工房は不快か?」
「……別に、不満はないわよ」
「じゃあ、安心だ」
「話が飛びすぎてるの!」
思わず声を張り上げた。だっておかしい。おかしいのに、あの男の口調は妙に冷静なのが気になる。何かを隠してる。
(なんなのよ、急に……。いつもは、人のことなんてどうでもよさそうなくせに)
「理由も言わずに『住め』なんて命令、聞けるわけないでしょ。私、そういうの一番嫌いなのよ」
「わかってる」
「だったら」
「それでも言う。今は従っておけ」
低く、静かで、それでも刺さるような声だった。
サフィアの喉が詰まる。反論できる言葉が出てこない。何も言わないまま、ただカイを睨むことしかできなかった。
「ロゼには、もう話してある。あいつはすぐ了承した。お前だけだ、残ってるのは」
「えっ、ロゼが?」
先に手を打たれていたことが地味にショックだった。
あのロゼがあっさり了承するなんて、なにか裏があるんじゃないかと疑ってしまうほどだ。
「……私に拒否権、ないの?」
「あると思いたいか?」
「最悪だ、性格わるっ!」
「知ってる」
即答されて、思わず笑いそうになったけど、口元を引き結んでこらえた。
彼の顔色は変わらないまま。けれどその声には、どこか不器用な優しさが混じっている気がした。
「……そんなこと、勝手に決めないでよ。私には私の生活があるし、急に変えられるわけ——」
「変えられる。変えるべきだ。今、動かなきゃ後悔することになる」
カイの声が、少しだけ熱を帯びる。指先が工具を滑らせ、小さく金属が跳ねた。 普段ならあり得ない失敗だ。 何かを見て、何かを知って、今このタイミングで判断を迫っていることはサフィアにも分かった。
けれど、それをそのまま信じていいのか。
(この人の“強引”は、私の“安心”とどう繋がっているのか)
簡単に返事を出せるような話じゃなかった。
「……少し、考えさせて」
そう絞り出すと、カイはようやく頷いた。
「いいだろう。だが、あまり時間はないからな」
時間。
何に追われているのか、彼はそれをまだ語らない。
けれど確かに、何かが迫っているような気がした。理由も、根拠もなく。
扉の前まで戻ったところで、ロゼが待っていた。
彼女は小首を傾げてサフィアを見上げ、少し戸惑ったように眉を寄せた。
「……なにか言われたの?」
「ん……まぁ、ちょっとだけ。急に“住め”って言われただけだから」
「えっ」
ロゼが素で驚くのを見て、サフィアは苦笑いしかできなかった。
「知らないの? サフィアには話してるのかと思ってた」
「わ、私も、えっと……昨日までは何も言ってなかったので」
お互いに曖昧な笑みを交わしながら、部屋の扉の前で言葉を失う。
ロゼが気まずそうに視線を落とす。
「でも……カイがああいう提案をするなんてね。少し驚き」
「私もだよ。まさかこんなに早く距離を詰めてくるとは思わなかった」
サフィアは苦笑混じりに言いながら、自分の心が落ち着かないのを感じていた。
「……とりあえず、保留にしたけど」
「まぁ、実際のところ1人くらいならいいからご自由に」
ロゼの問いに、サフィアは一瞬だけ黙り込んだ。
答えに詰まる沈黙を、廊下の静寂がやさしく包む。
(きっと何かある……はず)
サフィアは一度深呼吸して、ドアを開けカイをまっすぐ見た。
「……わかったわ。住む。でも条件がある」
「条件?」
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