第8話
朝の街路は騒がしく、けれどどこか懐かしい空気が流れていた。出入りの多い小道を抜け、目的の店先に辿り着くと、扉の奥からは金属の打ち合う乾いた音が響いていた。
サフィアはそっと息を吐いて、扉を叩く。
——コン、コン。
返事はない。いつも通り扉を開けようとすると、数秒後に重たい木扉が軋んで開いた。
「……なに?」
ほどなくして、扉の奥からひょこりと顔を出したのは、小柄で童顔の少女だった。目元がぱっちりとしており、つやつやの栗色の髪は首元でふわりと揺れている。淡い茶色の作業服を身にまとい、頬には煤が少し付いている。
その目は明らかに疑いの視線をサフィアに送っていた。
「……どちら様?」
「えっと、私は」
「ロゼ。俺の客だ」
ロゼ、と呼ばれたその少女は、くりくりした目でサフィアをじっと見つめたあと、カイのほうへちらりと視線を移した。
「なに? また面倒ごと?」
「違ぇよ。ただの客だ」
「ふーん。商会の人間ってもっとオッサン臭いのかと思ってたけど」
女性はじろじろとサフィアを見た。失礼な物言いだが、悪意は感じない。
「私はロゼ。この工房の大家。机の位置も、私が決めてんのよ」
「……え、大家さん?」
サフィアは思わず声を上げた。年齢的にも見た目的にも想像とはかけ離れていた。
「見た目で判断すんなってことよ」
ロゼはふっと鼻を鳴らした。
「……ま、ロゼが居るからこの工房はなんとか成り立ってるんだ。掃除、工具の管理、帳簿、ついでに俺の飯まで」
カイが作業に戻りながらぼそっと言った。
「飯もしっかり請求するから気にしないでいいわ」
「知ってる」
どうやら二人の関係は長いらしい。サフィアは少しだけ肩の力を抜いた。
「で? 仕様の話って、またあの変なスケッチみたいな図面で説明してくれるの?」
「ロゼ」
カイが静かに名を呼んだ。
ロゼは「はいはい」と手を振って口をつぐむ。
「気にしないでくれ。ロゼは口が悪いだけで、根は悪くない」
カイのその言葉に、ロゼはそっぽを向いたが、どこか照れたようにも見えた。
ロゼは肘をついたまま、サフィアとカイを交互に見比べていた。
カイがそっけなく言い返すと、ロゼは「はいはい」と気のない返事をしつつも、目だけはサフィアに向けられている。
「たまに出てくる名前よね『サフィア』って」
カイが無言で眉をひそめると、ロゼはにやりと笑った。
「あんたにしては、ずいぶん気さくじゃない」
「人による」
ぼそりと返すカイの横で、サフィアは困ったように視線を泳がせた。居心地が悪いというより、むしろこの空気がくすぐったいようにも見える。
「その、すみません。私、ちょっと、納品のことで──」
「また遅れてるの?」
ロゼが呆れたようにため息をつくと、サフィアはつい吹き出してしまう。
ロゼは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに目を細めた。
「まあ、いっか。折角だしお昼3人で食べる?」
唐突に言い出したロゼに、サフィアが目を丸くする。カイは無言でロゼの顔を見たあと、ぽつりと呟いた。
「……俺は腹減ってない」
「なんだ、つまんないの。じゃあ、あたしとサフィアで食べよっか。ね?」
「え、あ、はい。わかりました」
ロゼはふと、ちらりとカイの背を見やった。
「しかしまあ……あいつが、誰かとあんなふうに話してるとこ、初めて見たわ」
「え?」
「ここ何年かで、あんたくらいじゃない? カイの相手して、口げんかせずに済んでるの。いや、口げんかってほどでもないんだけどさ、あいつの態度で相手は閉口しちゃうのよ」
サフィアが驚いたようにロゼを見ると、ロゼは茶目っ気を帯びた笑みを浮かべて言った。
「たまに、珍しく話し声が聞こえると思ったけど、あれ、あんたの声だったのね」
「え、ええ……?」
「カイにしたら、めずらしく心を開ける相手なんだねぇ」
「……そんなことないと思います。私はただ、仕事の用で」
「ふぅん?」
ロゼがニヤッと笑ってカップを差し出すと、サフィアは観念したように苦笑を浮かべてそれを受け取る。
「単に変わった人だと思ってるだけです」
「そりゃ、変わってるのは間違いない。あたしだって大家じゃなきゃ付き合いきれないわよ。でも」
そこでロゼは少しだけトーンを落とした。
「ほんとに、誰も長続きしなかったんだから。
見てるこっちが心配になるくらい。だから、あんたみたいな人がいて……ちょっとホッとしてるとこ」
「……」
サフィアは小さく咳払いしながら、慌てて言葉を継いだ。
「あ、あれは仕事上の付き合い。ただの取引。世間話くらいはするけど、それだけです」
ロゼはくすくす笑って、椅子の背にもたれた。
「そかそか。それでもいいね」
「そ、そういえばカイって、ずっとここで暮らしてるの?」
「うーん。なんて言うのかな。数年前にフラッと現れてさ。最初はちょっとした不審者だと思ったよ」
「え……不審者?」
「いきなり道具袋ぶら下げて現れて、ここを使わせろって言ってきたの。私も最初は戸惑ったけど……なんか、ビビッと来たんだよね」
サフィアは驚いたようにロゼを見つめる。
「それで……工房を貸したの?」
「そう。なんとなくこの人なら何かやるって思ったんだよ。案の定今じゃ、こんな感じ」
ロゼは肩を竦めた。
「まぁ、人付き合いは良くないし、あなたくらいしか頻繁に来ないけどね。この間もどこかの貴族様か、その使いの人が来てたけど、顔すら見せてなかったし。なんだか封筒を置いて帰ったよ。知ってる?」
「あ、えぇ。まぁ……はい」
サフィアは曖昧に頷く。恐らく、先日の件だろう。湯気越しに目を伏せ、何か言いかけてやめた。そんな彼女に、ロゼは首をかしげた。
「サフィアってさ、カイのこと、どう思ってるの?」
「どうって、普通に仕事相手。癖はあるけど、腕はいいし、信頼できる」
「そうなのね。あ、私は恋愛感情とか全然ないから安心して。あんなぶっきらぼう、私の好みじゃないし。それに、もし付き合ったりしたら……ほら、家賃とか取りづらくなるじゃない?」
「リアリストね」
「あたしはそのへんドライよ? サフィアはどう? 好みのタイプじゃなかったりする?」
サフィアは少し目を細めたが、微笑を浮かべたまま、答えなかった。
仕事仲間以上でも以下でもない、ただそれだけ。私もそう思っていたし、彼女の口からそう断言されるのは、ある意味、当然のことだ。……なのに、どうしてだろう。
胸の奥が、ふっと波立ったような気がした。
気にするようなことじゃない。ロゼは昔から、あんなふうに笑って、他人の懐にするりと入り込んでくる。彼女がそういう性質だからこそ、カイみたいな変人とも長くやっていけてるんだ。
──それに比べて私は?
自分でもわかってる。私はもっと要領が悪いし、笑って誤魔化すのも苦手だ。仕事だって、きっちりやらなきゃ気が済まない。カイにだって、たぶん煙たがられてるだろう。
それでも。ふとした時に見せるあの横顔を、私だけが知っているような気がして。
それを、誰かに見せてほしくないと思ってしまう自分が、少しだけ、厄介だった。
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