第7話
サフィアは大通りを抜けて商会の本部棟に戻った。
受付に立ち寄ると、レイナが手帳を片手に応対を終えたところだった。
「おかえりー……って、あれ? もしかしてまた行ってた? あの例の変人屋敷」
「だからその呼び方やめてってば」
サフィアはわざとらしく眉をひそめる。が、レイナはにんまりと笑って肩をすくめた。
「はいはい、でも分かりやすいんだもん。あんた、あの人のとこ行ったあと、難しい顔して帰ってくるし」
「そりゃ、話が通じないからよ」
「ほんとにそれだけ?」
レイナは軽くからかうように言ったが、その目には一瞬だけ、何かを見極めようとする光が宿った。サフィアは気づかないふりで、そっぽを向いてカウンターに伝票を置いた。
「いいから、次の予定教えて。午後も仕事あるんでしょ?」
「はーい、はいはい。お仕事モードですねっと……」
レイナは軽やかに手帳を開く。その仕草はいつも通りだったが、どこか探るような視線が、じっとサフィアの横顔を観察していた。
「そういえばさ」
伝票を整理し終えたレイナが、ふと声のトーンを変えた。
「あの人の魔道具。あれ、ほんとにすごいよね。昨日も王都北支部から問い合わせ来てたよ。『補充はまだか』って」
「……また? 前回あれだけ送ったのに?」
「うん。どうやら、お湯を入れてしばらくすると勝手に一定温度で保温してくれる鍋が、貴族の屋敷でもはや手放せないって大騒ぎになってるらしいよ」
サフィアはその説明に、小さくため息をついた。
「高級だけどさ、もう生活必需品よね。どうやってあんな仕組み作ってるんだか」
「ね。見た目はシンプルだけど、中の細工は本当に精巧。あのへん、他の職人じゃ真似できない。ま、作ってる本人が気分で納品するってスタイルじゃなきゃ、商会的にはもっと安定供給して欲しいんだけど」
「ほんとそれ」
サフィアは苦々しげに言いながらも、胸の奥が妙にざわついていた。
他の職人じゃ真似できない。それは、どこかで自分が求めている言葉だったはずだ。
「……あの人さ、何者なんだろうね。貴族の出ってわけでもなさそうだし、学舎にいたって記録もないのに」
「うーん。裏では外の世界から来たって噂もあるらしいよ?」
レイナがそう言ってウィンクするように笑った瞬間、サフィアの表情がわずかに引きつった。
「……は? そんな馬鹿な話、誰が?」
「うそうそ。さすがに信じてはないけど。でも、謎が多いのは事実じゃない? わたしも、もし彼がもうちょっと愛想よかったら……なんてね〜」
「……やめなよ、そういうの」
「はいはい」
軽く流すように笑うレイナ。
だが、どこまでが冗談で、どこまでが探りなのか。サフィアには読めなかった。
「でもさ、あの人の作るものって、ちょっとおかしいっていうか……すごすぎると思わない?」
レイナは帳簿から顔を上げて、わざとらしく眉をひそめる。
「魔道具でもないのに、水を一滴ずつ均等に落とせる器具とか、服に魔力を通さずに熱だけ逃がす布とか。普通、あんなの作れる?」
「……まあ、珍しいのは確かだけど」
サフィアは苦笑しながらも、心のどこかで同意していた。カイの作る品には確かに、理屈だけでは説明のつかない何かがある。
「もしかしてさ、あの人、転生者なんじゃない?」
「……またそれ?」
レイナの茶化すような声に、サフィアは肩をすくめる。
この世界には別世界からやって来た者。通称〈転生者〉という存在が、ごく稀に語られることがある。
遥か昔、空を飛ぶ馬車を作った者や、錆びない金属を操った者がいて、彼らも皆、前の世界の知識を持っていたのだという。民間伝承のように扱われているが、王宮では今も密かに「転生者を探し、保護する」動きがあるとも囁かれていた。
「まあ、性格だけ転生者クラスかもね」
サフィアは唇を尖らせた。
同僚たちに軽く声をかけると、私物の鞄を肩にかけ商会の玄関を後にする。
***
空はすっかり夕暮れ色に染まり、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。寄り道もせずにまっすぐ家へ向かう。仕事用のパンプスの音が石畳に軽く響くたび、緊張が少しずつ抜けていくのを感じた。
(……はぁ)
誰に向けるでもない溜息が、唇からこぼれる。
成功だった。あの気難しい男を相手に、ちゃんと価格を通し、しかも定期契約の可能性まで引き出した。完璧なはずだ。それなのに、胸のどこかがむず痒い。
そう自分に言い聞かせるように、サフィアは眉間を押さえる。
(ちょっと、気が抜けただけ。仕事モードから戻ってきただけ……)
ドアの鍵を開けて部屋に入る。靴を脱ぎ、肩の力がようやく完全に抜ける。
「ふう……」
帰宅して扉を閉めると、サフィアは小さくため息をついた。背中からふっと力が抜けて、壁にもたれかかる。
「つっかれたぁ……」
小さく声に出して、ぐしゃっと髪をかきあげる。
外では決して見せない、気の抜けた素の声だった。
服を脱ぎながら部屋着に着替えて、浴室へ。シャワーの音とともに、鼻歌が漏れる。リズムも音程も微妙にずれてるけど、本人はノリノリだ。
「あ〜。ん〜♩」
シャンプーの泡を流しながら、つい口元が緩む。怒ってるつもりなのに、なぜか思い出すたびに心がポカポカしてくる。シャワーを終えて、髪をバスタオルで雑に拭きながら台所へ向かう。
「さて、今日は……レトルトでいっか」
冷蔵庫を開けて中を見つめながら、素早く妥協。
さっきまでビシッと取引していた姿とは別人のように、レンジでチンしてるあいだクッションを抱えてソファでぼーっとする。ピッ、という電子音に反応して、のそのそと立ち上がる。
「……私の人生、仕事とレトルトで構成されてる気がする」
ぼそりと呟いて、湯気の立つ皿を持ったまま、またソファに沈む。
ふと、無意識に口元が笑う。
「……でも、まあ……悪くないかもね。その気になれば作れるし。1人だとやる気出ないだけで」
シャワーを浴び終えたサフィアは、バスルームから出てきて、まだ少し湿った栗色の髪をタオルで雑に拭きながら、リビングのソファにどさりと倒れ込んだ。商会でのきびきびとした姿からは想像できないほど気が抜けていた。
「あーっ」
今日も一日よく働いた。ちゃんと営業数字も出したし、部下の相談にも乗った。トラブル処理もして、交渉もまとめた。それなのに、上司は他の会議のことばっかり突っ込んでくるし……。
「……ほんと、ちょっとぐらい褒めてよね。あのじじい」
素肌にラフな白いタンクトップに、くたびれたスウェット。化粧は全部落ちて、まつ毛は素の長さに戻っているし、頬のチークも消えている。でも、逆にその顔には、昼間とは違う柔らかな雰囲気があった。
ぱっちりとした灰色瞳、少しだけつり上がった目元。やや淡い色味の唇が、むすっとしたまま突き出ていた。
濡れ髪のまま、片手でざくっと髪を後ろにまとめ、もう片方の手でゴムを探す。引き出しの中をごそごそと探りながら、ふと鏡に映った自分の顔に目をやった。
自分の顔に見惚れるほどの自惚れはないけれど、こうして無防備な表情になれるのは家の中だけだ。
クッションに顔を埋めたまま、サフィアはしばらく無言でじっとしていた。けれど、頭のどこかでは、明日の予定がじわじわと浮かんでくる。
(明日の午前中は商会の会議、午後は倉庫の棚卸しの立ち会いか。ああ、面倒くさい)
軽く呻いてから、ソファの背もたれにごろんと寝返りを打つ。テーブルの上に置いていたクラッカーの残りを手に取り、ぽりぽりとまた口に運ぶ。
(でも、在庫表は今夜のうちに目を通しておいたほうがいいよね。あの数字、微妙に合ってなかったし……)
目を閉じても、数字の羅列がまぶたの裏に浮かんできて、思わず片手で顔を覆う。
「退社したのに仕事のこと考えてるとか……何してんの私」
ぼやきながら、伸びを一つ。ゆるく丸まった体を起こすと、壁際の棚に無造作に積んである帳簿を取りに行く。
「せめて……このままでやろ」
そう言って、ゆったりとしたシャツの裾を引っ張って座り直し、帳簿をぱらぱらと開いた。ページの端にクラッカーの汚れがつかないように、なんとなく指先をズボンで拭う。仕事を忘れようとしたはずの手は、気づけばダイニングテーブルの書類を引き寄せていた。
「……はぁ、明日の納品、これチェックしておかないとだし」
書類の山をぱらぱらとめくりながら、サフィアはクラッカーの欠片を舐め取るように口に放り込む。お湯も沸かしていない。帰り際に買ったハーブティーの残りに口をつけ、眉をしかめる。
「あーもう、ぬるっ。なんでこう、仕事が気になっちゃうんだろ」
だらしなく髪をかき上げ、ため息をひとつ。
ふと、視線が止まる。
カイの名前が印字された書類。数日前に納品された「香炉型の精製器」の追加資料だ。
サフィアはごく自然にその紙束を取り上げた。
(しかしまぁ、このサイズであの濾過精度……。魔素濃度も安定してた。熱分離の挙動も早かったし、たしか……)
眉間に皺が寄る。否、職業柄の集中の兆しだった。
(あり得ない。普通の設計じゃないと思う)
独りごちるように、サフィアは手元の資料を指先でなぞる。
市場で流通している一般的な精製器は、魔石の安定性を高めるため、重厚な造りになっているものが多い。中には護符を何重にも編み込んで、見た目は完全に黒鉄の塊、という品もあるくらいだ。
だがカイのものは異常に洗練されていた。軽くて、薄くて、無駄がない。しかも香炉のような形状は、空間の通気にも干渉していたのか、精製のときに生じる魔力の揺らぎも抑えられていた。
「他で見たことないんだけど、あれ……」
思い返す限り、あの形状も、あの効果も、どの商会のものとも一致しない。類似品すら出回っていないのだ。クラッカーをぽりぽりと齧る手が止まった。
カイが特殊な工房と契約していて、市場に出ていない製品を個人ルートで回してる?
いや、そもそもあれ、彼が自作してるって言ってたような……。他の商会と取引してるなんて話も聞いたことない。
「嘘でしょ。あのクオリティで、あのサイズで、ほぼ個人製作って……」
そこまで考えて、サフィアは頭を抱えた。理解が追いつかなかった。
(まさかとは思うが、本当に一人で作っているなら……)
「……ちょっと、変人にもほどがあるでしょ、あの人」
呆れたように笑いながら、でも内心では妙なざわつきが残っていた。あの香炉の完成度、そして市中に流通していない事実。偶然の一致にしては、あまりにも説明がつかない。
精製器としては驚くほど見た目が簡素で、美しいほどに無駄がなかった。香炉と見まがう意匠に油断したが、性能は商会の最上級品にも引けを取らない。
(どう作ったんだろ。中を開けたくなる……でも、壊せるわけないし)
それは製作者の領域だ。
頭の中で構造を分解しようとすればするほど、彼のやり方や癖が浮かんでくる。
唇を噛むようにして、ソファに体を預ける。
「……もう、寝よ。寝て全部忘れよ」
そう言って目を閉じたはずなのに、脳裏では香炉の中身がぐるぐると回り続けていた。
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