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第5話

交渉ごとって難しいですよね。

 市場通りを抜けた先、白壁の連なる商会街の一角。

 大手商会〈ルヴェール〉の看板を掲げる石造りの建物に、サフィアは朝一番の書類を抱えて足早に入っていく。

 磨き上げた床にヒールの音を響かせながら、彼女は事務所の奥へと進んだ。髪はきっちりと結い上げ、白と紺の制服も乱れがない。


「さてと……一体どうしてこういうことになってるのかしら」


 無言のまま机に書類を叩きつけ、ペンを走らせる。営業担当である彼女の朝は、後始末から始まった。


「おはよう、サフィア。今日もばっちりね」


 そう声をかけてきたのは、親友、レイナ・トゥランだった。

 明るい栗色の髪を揺らし、にっこり笑って書類の山をちらりと見る。


「朝から働き者。私なんてまだ眠たいのに」

(奇遇ね。私も)


 毒づくのは心の中だけ。

 サフィアは微笑み返した。仮面のように完璧な、営業スマイルで。


「早く終わらせないと、お得意様の対応ができないから」

「ああ、あの偏屈さん? ご愁傷様」

(口が悪いのはどっちもどっちでしょ)

「でもまあ、あの人って……やっぱりイケメンだよね。王子様みたい」

「いや、王子様とは……仕事ができる人よ」

「はいはい、外見より中身って顔しちゃって。そういうの、逆に余裕ある感じだからサフィアはモテるのよ」

「私は仕事相手として接してるだけ。それに私はモテないわよ」

「だけが揺らぐ瞬間がドラマなのよ?」


 レイナはおどけたように指を立てて、口元に添える。

 仕草は軽いのに、どこか探るような視線だった。


(本当に、どこまでが冗談でどこまでが本音なのか、わからない)


「ふふ、冗談よ。変なプレゼントとかもらっても、後でこっそり見せてよね?」

「もらう予定はないわ」

「ふーん。そう言って、ちゃんと隠してたりして」

「ないない」


 商会の扉が開くたび、朝の光と共に次々と人が流れ込んでくる。

 書類を抱えた者、伝票を回す者、手短に報告だけして足早に立ち去る者。

 その全てがちらりとサフィアに視線を寄せ、軽く頭を下げていく。


「おはようございます、サフィアさん」

「今日の便、手配済みです」


 サフィアの机の上には既にいくつもの依頼書と帳簿が積まれ、ペン先は休む暇もない。

 要点を素早く確認し、修正点を指摘し、時には横からの質問にも即答する。


「この在庫、入荷予定とズレてるわ。確認して」

「この依頼は予算が合わない。代案をつけて返して」


 テキパキとした指示に、若手の社員たちは「はいっ」と背筋を伸ばして返事をする。

 まるで商会全体の流れが、サフィアを中心に回っているようだった。

 その様子を見てレイナが小さく口笛を吹く。


「相変わらず、仕事できる女……っていうか、私いなくても回りそうね」

「そう? おだてても何も出ないわよ」


 サフィアは肩をすくめ、ようやく顔を上げた。

 にやにやと笑いながらレイナは去っていった。

 サフィアは小さく息を吐き、笑顔を解く。

(あんな風に軽く生きられたら、楽なんだろうな)


「サフィアさんいいですか……?」


 隣の机の若手が、不安げな顔をしながらサフィアに声を掛けた。


「どうかした?」

「また、値引きの要請が……」

「エリュト商会ね……二回目の値引き交渉。あそこ、最初から吹っかけてくる癖あるのよね」


 そう言いながら、書類を斜めに読み飛ばし、さらりと赤ペンで印をつけて返す。


「納品の遅れは別件で詫び状出してるから、これ以上は譲らなくていいわ。もう値引きはしなくていいから」

「はいっ、サフィアさん!」


 若手の事務員がぱっと笑顔になって書類を抱えて去っていく。

 その背を見送りながら、別の部下がぼそりとつぶやいた。


「……なんで全部即答できるんですか、ほんとに」

「見て覚えなさい。裏技は多分ないと思うわ」


 言いながら、横の紅茶を一口啜る。その隙に、別の来客報告が届いた。


「エリュト商会の担当者です。近くに寄ったのでご挨拶だってさ」

「あら、奇遇ね。挨拶って名目で値段聞きに来るのが最近の流行?」

 

 溜息をつきながらも、椅子から立ち上がる。


「いいわ。応接室に通して。ちゃんと笑顔で迎えてね。笑顔はタダだから」


 応接室には、すでに中年の男性客が通されていた。品のいい麻の上着に、金の指輪が五本の指に均等に収まっている。身なりの派手さより、その仕草や視線の鋭さが印象に残った。数回会ったことは有るが、強引と自覚しつつも自分の意見を通してくる少しだけ面倒な相手だった。


「お待たせいたしました。ルヴェール商会のサフィアです」


 にこやかに微笑みながら腰を下ろすと、男は待ちかねたように口を開いた。


「あぁ、サフィアさんこんにちは。近くに寄ったものでね。それでだ。見積もりの件だがな……あれはちょっと、強気すぎじゃないのかね?」


 来た、とサフィアは内心で息を整えた。笑みを保ったまま、手元の資料を広げる。


「ご指摘ありがとうございます。ただ、前回納品させていただいた品については、当初半年の耐用を見込んでおりましたが、実際には四ヶ月での再発注をいただいております」

「それはうちの現場がハードなだけだ」

「承知しております。ですが、同型機種での実地試験や、使用環境に関する報告書から、摩耗と熱蓄積の速度が想定を上回っていたことが判明しました。今回の品は、そのデータを元に強化処理を施した特注品です」


 男は目を細め、テーブルに肘をついた。


「だからといって三割増しか。強化だなんだと名目を付けて、値を釣り上げたいだけじゃないのか」


 サフィアは一瞬だけ笑みを深める。


「もしそうであれば、保証期間も据え置きにいたします。しかし今回の品は、配合も見直し、とある成分を通常の三倍量を使用しております。信頼性の裏打ちは、コストに反映せざるを得ません」


 男の口元がわずかに歪む。拒絶ではなく、興味のサイン。サフィアは間を置かず畳みかける。


「止まらない装置が求められる現場において、交換の手間と万が一の損失を思えば、初期コスト以上の価値があると私どもは考えます」

「……うちは雑な使い方をしてると?」

「いえ、そうではありません。ただ、御社の現場がそれだけ過酷な環境であるというだけです。むしろそのような場での採用、大変嬉しく思っております」


 男はしばらく黙ったまま、資料に目を落とした。やがて、ぽつりと漏らす。


「……こう言っちゃなんだが、しっかりしてるな」

「ご期待に添えたのであれば、光栄です」


 サフィアは一礼しつつ、最後の一手を差し出す。


「もし今回の仕様にご納得いただければ、次回から定期契約のご相談も承ります。安定供給とコストの平準化は、御社にとっても悪くない話かと」


 男の口元が緩んだ。


「話が早くて助かる。うちの取りまとめ役に、あんたを紹介しとくよ」

「ありがとうございます。お力になれれば何よりです」


 男が笑うと、サフィアも小さく頭を下げた。


「それでは、正式な契約書類は追ってお届けいたします。本日はありがとうございました」

「こちらこそ。急に来てすまなかった」

「いえいえ。近くに寄られた際は是非に」


 商談は円満に締めくくられた。サフィアは椅子を引いて立ち上がると、客を丁寧に見送るため応接室の扉を開けた。

 客が視界から消えたことを確認すると、サフィアは書類を手早くまとめて立ち上がった。客はすでに上機嫌で立ち去り、商会には一息ついた空気が流れていた。


「それじゃ、外回り行ってきます」


サフィアはカバンに資料と納品物をまとめて入れると、商会の扉を開けた。

いつも読んでくださりありがとうございます。

皆様のPVが力になります。

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