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第4話

第4話です。

飲食のシーンを書くとお腹が空きますね。

 カイと別れて家に戻ったサフィアは、着替えるでもなく、靴を脱いだまま玄関先にしゃがみ込んだ。なんだか疲れたような、けれど、妙に身体の芯がそわそわして落ち着かない。


「……いつもあんな顔、してたっけ?」


 思い返すのは、ふとした瞬間に見えたカイの横顔。睫毛が長くて、目元の彫りが深い。

 斜めから差し込んだ太陽に照らされて、ほんの少しだけ色づいて見えた頬。

 そんなの、今まで気にも留めていなかった。


(仕事相手として、妙に気を張ってただけ……でしょ?)


 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥がかすかにざわめく。どこかで、カイの目の動きや声の調子を気にしていた自分がいた。

 今日だって、いつも以上に言葉を選んでいた気がするし、あのさりげない「もう少し一緒にいたかった」なんて台詞、何のつもりだったんだろう。

 ソファに倒れ込むように身を投げて、サフィアは腕で顔を覆った。


「……っ、なんで、私が意識してんのよ!」


 やけに火照る頬。思い返すたびに、心拍が跳ね上がる。

 まるで、気づきたくなかった感情に、指先でそっと触れてしまったような。

 髪をざっと乾かしてバスタオルのまま冷蔵庫を開けた瞬間、サフィアは盛大にため息をついた。


「……あー、ない」


 何もない。正確には、昨日のスープの残りと、非常用の缶詰が2個。以上。

 諦めたように棚から缶詰を取り出すと、パキンと音を立てて開けた。中身はオイルサーディン。

 にんにくとハーブの香りが、ふわりと湯気に混じって立ちのぼる。


「毎日が非常事態ね」


 テーブルに腰を下ろし、冷えた瓶ビールの栓を指で器用に外すと、炭酸の音が心地よく響いた。


「……はぁ。なんでこんなにモヤモヤしてるんだろ、私」


 一口。炭酸が喉をなぞり、苦味の後に香ばしい余韻が残る。

 それに続けてサーディンを口に入れると、ハーブと塩気のバランスが絶妙で、ついもう一口とフォークが止まらなくなる。

 美味しい。けど、なんだろう。カイの顔が、ちらつく。

 あの不意打ちの低い声。耳元でささやくようにして言われた『心地よい』という言葉。


「……なに、あれ」


 ビールをあおって、うっすら赤くなった頬に手を当てる。

 意識し始めると全てにソワソワしてしまう。

 あの距離感反則。目も、声も、顔も。改めて思い出すと、普段は気にならなかったはずのカイの整った顔立ちが、妙にくっきりと記憶の中に浮かんでくる。肌の白さ。形のいい鼻。

 

「意外と……イケメンね」


 口に出して、思わずビールを吹きそうになった。

 慌てて口を押さえるサフィアの頬は、ビールのせいだけじゃない赤みを帯びていた。


「……いやいやいや。ないない」


 慌てて首を振る。自分でも分かるくらい、顔が熱い。

 あんな偏屈で、人付き合いもろくにしない人なのに。なのに、今日のあれはちょっと。

 なのに、心のどこかが期待してしまっている。

 ふと、食べかけのフォークが止まり、思わず窓に映る自分の姿を見つめる。

 

(私は、あの人のこと、どう思ってるんだろ)

 

 ただの変人。取引相手として面倒な人。

 でも、今は……なんか、少しずつ、違うような。


「……うっざ。なんで私が悩んでんの」


 そう言いながら、缶詰の残りをかき込む。冷えても不思議と美味しかった。

 少し強めのアルコールがあれば、誤魔化せたかもしれない。

 けれど今日は、素面のまま、この悶々を抱えて眠ることになりそうだ。


「……ん?」


 足元にぺたりと何かが倒れているのに気づいて、サフィアは眉をしかめた。

 小ぶりな陶器の鉢。中の観葉植物は、見事にしおれていた。

 葉はくたびれたようにうなだれ、土は乾いてひび割れている。


「……あちゃ。やらかした」


 ひとまず鉢を起こして定位置に戻すと、キッチンから水を持ってきて丁寧に注ぐ。

 土にじゅわっと水が染みこむ音が、妙に心にしみた。明らかに手遅れなのだがその様子を見て少しだけ罪悪感が薄れる。


 ここ数日、何かと忙しかったのは確かだ。会議も多かったし、資料も山積みで。でも、だからってこの子を忘れていい理由にはならない。

 水やりを終えて立ち上がったとき、つい口をついて出た。


「……カイのせいでしょ、こんなの」


 呆れ混じりに呟いたあと、自分の言葉に気づいて、サフィアはぎょっとした。

 どう考えても植物とは無関係なはずなのに。

 

 彼の偏屈な物言い、わざとらしい皮肉、妙に記憶に残る低い声。

 思い出すつもりなんてなかったのに、気づけば脳裏に浮かんでくる。


「……やば、私、疲れてるな。マジで」


 そう誤魔化すように、サフィアはわざと大きく伸びをした。

 口に出すつもりはなかったのに、自然とあの男のことを思い出していた。

 思い出したくもないくらい、いちいち腹が立つ。けれど、その分だけ思い出してしまうのも事実だった。


「ああ、もう……なんなのよ」

 

 瞼がじわじわと重くなる。ソファの柔らかさと、体に染みついた疲労が、全身をだらけさせていく。

 思考の底で、ぐったりした観葉植物と自分を重ねて、ちょっとだけ笑った。

 

 次に目を開けたとき、もう夜は更けているかもしれない。けれど今はもう、考えたくなかった。

 そんな言い訳じみた誓いを胸に、サフィアはそのまま、静かに眠りに落ちた。


挿絵(By みてみん)


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