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第26話

 朝の街は、まだ柔らかな光に包まれていた。石畳を踏むたび、昨日の出来事が胸の奥で何度も反芻される。

 

 王宮の静まり返った室内、レオンの眼差し、沈黙の重み。その全てが、今も指先に残っているようだった。

 商会の扉を押し開けると、香ばしいインクと紙の匂いが鼻をくすぐる。窓辺から差し込む朝日が、並んだ帳簿や見積書の端を金色に染めている。いつも通りの忙しない空気だが、どこか胸の鼓動だけは普段より速い。


「あ、サフィア」


 奥の机で帳簿を抱えていた事務員が、こちらに気づいて小走りに近づいてきた。その手には、重厚な封書。封蝋には、見慣れた特務課の紋章がくっきりと押されていた。


「今朝、王宮からの使いが届けに来ました。おそらく……例の件かと」


 事務員の言葉を聞いた瞬間、サフィアは一拍、胸の奥で息を止めた。封書を受け取る手のひらに、紙の冷たい感触が伝わる。重みは、昨日の会話の全てを閉じ込めたようだった。

 その場で封を切る。乾いた音とともに、封蝋が割れ、滑らかな紙が広がる。

 整った筆跡が目に入り、自然と視線がそこを追った。


『貴商会が提案された製品について、前向きに検討の意志あり。まずは試験導入を行い、実用に適する場合は正式契約へ移行する』


 文字をなぞるように読み進めるたび、肩にかかっていた見えない重石が少しずつ外れていく。あの沈黙、レオンの細やかな仕草。すべてが確かな手応えだったと、今ようやく確信できた。


「……ありがとう。受け取ったわ」

(やった!! )

 

 封書を丁寧にたたみ直し、鞄へとしまう。サフィアにとってそれはただの契約書類ではなかった。商会と、自分自身の立場を守るための盾だ。窓の外では、街のざわめきがゆっくりと大きくなっていく。

 商会を後にする足取りは、昨日よりも確かに軽かった。まるで羽が生えたようだ。


(これで、しばらくは静かに仕事ができそう)


 胸の奥に広がる安堵を抱えながら、サフィアは工房への道を思い浮かべた。


***

 工房の扉を押し開けると、金属の匂いと、微かに熱を帯びた空気が迎えてくれた。


(いい匂いって訳じゃないけど、この匂いを嗅ぐと、どこか心が落ち着くわね)


 カイは作業台に向かい、ルーペを片目に装着して小さな部品をいじっている。その背中に向けて、サフィアは鞄を置きながら声を投げた。


「カイ、納期が迫ってる例の製品、あとどのくらいで仕上がる?」


 彼は手を止め、ルーペを外してこちらをちらりと見た。


「……三日。細かい調整がまだ残ってる」

「じゃあ、予定通りね。そのまま頼むわね」

「予定通りに行くといいな」

「そこは、しっかりしてよね」


 サフィアは胸の奥で小さく頷く。鞄から封書を取り出し、机の上に置いた。深い赤の封蝋は、朝受け取ったままの形を保っている。


「それと、こっちは特務課からの返事。試験導入を経て、問題なければ正式契約。昨日の勝負は、どうやら勝ったみたい」

「今にも踊り出しそうだな」

「そう見える? 踊ろうかしら」


 カイが封書を手に取り、視線を走らせる。

 わずかに口元が緩んだその瞬間、サフィアの胸の中で安堵が広がった。


「そうか。……これで、しばらくは静かになる」

「ええ。だからこそ、今のうちに他の仕事もきっちり片付けましょう」


 その言葉に、カイはわずかに目を細める。


「……で、他の依頼は?」


 サフィアが腰に手を当て、作業台の上を一瞥する。


「例の修理案件、そろそろ部品が揃う頃じゃない?」


 カイは無言で部品箱を指差す。覗き込むと、確かに必要な部品がきちんと並んでいた。


「ちゃんと用意してるのね。珍しく優秀じゃない」


 わざと軽口を叩くと、カイは工具を置きながら小さく息を吐いた。


「俺はいつだって優秀だ」

「はいはい、自分で言うあたりが惜しいのよ」

「それ、あとどのくらいで仕上がる?」


 サフィアは作業台に近づき、並べられた部品と工具を覗き込んだ。


「特務課へ納める試作品の納期もぼちぼち近いけど」


 カイは手を止めず、部品の表面を磨きながら短く答える。


「今日中に組み立てまではするさ。確認はタイミングを見てだな」

「一先ずは問題なさそうね」


 サフィアはにやりと笑い、カイの肩越しに作業の様子を覗き込む。


「……でもそのネジ、ちょっと曲がってない?」

「曲がってない」

「いや、曲がってるって」


 指を伸ばして指摘しようとすると、カイがその手を軽く押し返した。


「触るな。お前、前もそれで部品落としただろ」

「うっ……覚えてたの、それ」


 口を尖らせるサフィアに、カイは無言で工具を持ち替える。器用な手つきで部品をはめ込み、最後に軽くネジを締めた。サフィアは黙って見ていたが、工具を置いた瞬間、作業台の端に置いてあったマグをそっと差し出された。


「……ありがとう」


 受け取ると、まだ温かい。さっきまで自分の手元にあったはずのそれを、何も言わず渡してくれる。そんなところがずるい。


「感謝してるくせに、言葉はないのね」

「飲まないなら返せ」

「飲むってば」


 笑いをこらえながらマグに口をつける。

 温かい香りが喉を通っていくのと同時に、工房の空気がほんの少し和らいだ。


「……言ったら、うるさいだろ」


 カイは作業台に向かい、金属片を静かに磨いていた。無駄のない手つきと、規則的な工具の音。

 その背中を眺めながら、サフィアはゆっくり近づく。


「ねえ、それ、何作ってるの?」

「部品」

「見ればわかるけど、何の部品?」

「……秘密だ」

「またそうやって教えないんだね」


 少し膨れた声で言いながら、サフィアは彼の横に立ち、作業台を覗き込む。


「ふーん……でも、磨き方はきれいね。私がやったらもっと早く――」

「雑になる」

「即答……ね」


 マグを置いたサフィアは、作業台の上の部品を指先でつついた。


「……これ、形が少し歪んでない?」


 カイは一瞬だけ手を止め、淡々と返す。


「わざとだ」

「わざと?」

「組み込んだときに力が分散する」

「へえ……そんなことまで計算してるのね」


 感心して頷くと、カイは視線を戻し、また黙々と磨き始める。その横顔を見ながら、サフィアは小さく笑った。


「そういうの、もっと説明してくれてもいいのに」

「聞かれたら答える」

「……ほんと、不親切ね」


 言葉ではそう言いながらも、そのぶっきらぼうな返しの奥に、きちんと応えてくれる誠実さを感じてしまう。

 サフィアは部品から視線を外し、何気なく口を開いた。


「……ねえ、なんだか、時間がゆっくり流れてる気がするわ」

「ここにそんな機械はないぞ」

「えぇ、そうでしょうね」


 カイは手を動かしたまま、短く答える。


「お前が静かならな」

「……ひどい」


 わざとらしくため息をつき、作業台から離れようとすると、カイの低い声が背中を追った。


「別に、嫌じゃない」

 

 足が止まる。振り返ると、カイは相変わらず視線を手元に落としたままだった。

 けれど、工具を持つ手がほんの少しだけ緩んでいる。


「……そういうこと、もっと早く言ってくれればいいのに」

「言ったらうるさいだろ」

「確かに」


 ぐうの音も出ない。

次で終わりです。皆様のPVが励みになります。

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