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第25話

 王宮を出た途端、外気が頬を撫でた。

 冷たいはずの風が、今日はやけに心地よく感じられる。足取りも、いつもより軽い。


(悪くない……ううん、かなりいい手応え)


 脳裏でさっきの交渉の場面が蘇る。レオンのわずかな指の動き、ケースを閉じる時の慎重さ。あれは間違いなく、価値を認めた人間の仕草だった。


『交渉終了。直帰します。詳細は明日報告』


 商会には端的に連絡を入れた。こうしておけば、余計な詮索も心配もせずに済むだろう。通信を終えて顔を上げると、日暮れ前の市場が賑わっていた。香ばしいパンの匂いと、果物を積み上げた屋台の鮮やかな色彩が視界を彩る。

 ふと、目に留まったのは酒瓶を並べる小さな店だ。木の棚にずらりと並んだ琥珀色の瓶が、傾きかけた陽光を受けてきらめいている。


「……たまには、こういうのもいいかもね」


 自分へのご褒美、そして、あの人にも。そう思った瞬間、自然と頬が緩んだ。棚の奥から、深い赤のラベルが貼られた一本を手に取る。少し甘みのある香りがするこの銘柄は、確かカイが前に「嫌いじゃない」と言っていたはずだ。

 それを包んでもらい、抱えるようにして店を出る。紙袋の重みが、不思議と心地よい。

 この重量は、今日得た手応えと同じ――確かな成果の重みだ。


(さて……あの顔、どんなふうに変わるかしら)


 想像して、さらに口元が緩む。夕焼け色に染まる街路を抜け、工房への道を急いだ。


***

 扉を押し開けると、油と金属の匂いが鼻をくすぐった。作業台の奥から、カイが顔を上げる。


「……早かったな」

「ええ。思ったよりスムーズに終わったから」


 そう言いながら、抱えていた紙袋を高く掲げる。


「あと、これ。今日はちょっとお祝い」


 カイの視線が袋の形を一瞥し、わずかに眉が動いた。その反応に満足して、サフィアは台所の方へ歩く。


「ロゼにも声をかけてくれない? 三人で飲みたい気分なの」

「……別にいいが。あいつ、忙しくなければな」


 カイは作業台の端に置かれた小さな通信具を操作し、短く呼び出しの符を送った。間もなく、カン、と軽い音が返ってくる。


『あんたら、何かいいことあったの?』

「まあ、そんなところ。すぐ来られる?」

『行く行く。酒あるならなおさら』


 通話が切れ、カイが肩をすくめた。


「喜んで来るそうだ」


 それからほどなく、扉を叩く軽い音がして、ロゼが顔を覗かせた。


「おー、本当に酒あるじゃない。どうしたの、こんな豪勢に」

「ちょっと、仕事がうまくいったの。だから乾杯でもしようと思って」


 テーブルの上にワインとグラスを並べ、軽くつまめるパンやチーズも添える。コルクを抜くと、ふわりと甘い香りが広がった。


「さて、何があったのか……聞かせてもらおうかしら」


 ロゼが椅子に腰掛け、興味津々に身を乗り出す。

 サフィアはグラスにワインを注ぎながら、今日の交渉を思い出す。あの静かな室内、視線、そして手応え。


「特務課にちょっとした取引を持ちかけたの。これで少しは、余計な詮索も減るはずよ」

「……で、どんな取引よ?」


 ロゼがグラスを軽く回しながら、にやりと笑う。サフィアは一口ワインを飲み、喉を潤してから口を開いた。


「特務課に、うちだけが作れる魔力探知器を提案してきたの。もちろん、特務課専用って条件付きで」

「魔力探知器……ああ、あれだ。前に俺が試作したやつ」


 カイの声は低いが、その奥にわずかな興味が混じっていた。


「そう。それをあえてこちらから差し出したの。『他にも興味を示すところはあるけど、私はこの国が好きだからまずあなた方に』そう言ったら、しばらく黙って考えてたわね」


 レオンの指がわずかに動いた瞬間、ケースを閉じる音、あの空気の変化。それらを思い出すと、胸の奥に静かな満足が広がる。


「やるじゃない」


 ロゼが口元を緩め、グラスを軽く掲げる。


「相手がどう動くか読むの、あんた得意よね。商人の癖がいい方向に出てるわ」

「癖って言わないで。ちゃんと計算してやってるんだから」

「でもさ」


 カイがグラスを手に取り、琥珀色の液体を一口。


「特務課に近づくこと自体、危ない賭けだ。深入りするなって言ったよな」

「わかってるわ。でも、黙って詮索される方がよっぽど危険よ」


 サフィアは真っ直ぐに彼を見返す。


「それに、ただの脅しじゃないわ。本当に役立つものを渡すんだから、向こうだって悪くは思わないはず」


 カイは少し黙り、視線を外してグラスの中を見つめる。その横顔を、ロゼがちらりと見てから口を開く。


「まあ、結果としては正解よ。相手の懐に入れたし、恩も売れる。なんなら特価で卸してもいいわ」


 そう言ってロゼはグラスを掲げ、二人に向ける。


「じゃあ、サフィアの勝利に乾杯!」


 カイも、わずかにためらってからグラスを持ち上げた。グラスの縁が軽く触れ合い、澄んだ音が工房に響く。

 ワインを口に含むと、今日の緊張が少しずつ溶けていくのがわかる。

 酒の甘い香りと、二人の視線。そのどちらもが、心地よかった。ロゼがパンをちぎってチーズをのせ、器用に口へ運ぶ。


「しかしまあ……昨日今日で、よくそこまで話をまとめられたわね。普通は王宮相手だと、書類の山に埋もれるもんよ」

「相手の目を見て話せば、書類より早く動くわ。と言っても私がうまく行ったって言ってるだけで、実際はどうかわからないけどね。やっぱりなし。って言われるかもしれないし」


 サフィアは肩をすくめ、もう一口ワインを飲む。


「まあ、その分こっちの神経も削られるけど」

「図太さがあんたの武器なんじゃない?」


 ロゼが笑いながら言い、カイの方へ視線を送った。


「ね、あんたもそう思うでしょ?」


 カイは一瞬だけサフィアを見てから、ワインを口に含む。そして、ぽつりと呟いた。


「……お前、本当に商売人だな」


 その言葉に、サフィアは少し目を瞬かせたあと、ふっと笑みを浮かべた。


「それ、褒め言葉として受け取っていいのよね?」

「好きにしろ」

「好きにするわ」


 短くそう返して、彼は視線を外す。

 けれど、その横顔はどこか柔らかかった。

 ロゼが「はいはい、照れてる照れてる」と茶化し、テーブルの上の空気が少し和らぐ。サフィアにとってはこの一日の頑張りを確かに報いてくれるご褒美だった。


(……悪くない一日だったわね)


 そう心の中で呟きながら、グラスの中の赤をゆっくりと揺らした。


「それにしても……」


 ロゼがパンをもう一切れ取り、片手で軽くちぎりながら言った。


「今日のあんた、妙に堂々としてたわよ。帰ってくる時の顔、見たかったくらい」

「別に……普通よ」


 サフィアは視線をグラスに落とし、笑いをこらえる。

 本当は、王宮を出た瞬間に足取りが軽くなったことも、つい酒を買ってしまったことも、見抜かれているのだろう。


「いや、普通じゃないな」


 カイがぼそりと言い、視線をサフィアに向けた。


「目つきが違った。……戦い終わって戻ってきたやつの顔だ。ギラギラしていた」

「戦いって……商談よ、あれは」

「おんなじだろ。言葉と駆け引きで勝ち取ったんだから」


 その言葉に、サフィアは少しだけ胸の奥が温かくなる。


 ロゼがすかさず「はいはい、のろけはその辺で」と茶化し、また笑いが広がった。

 グラスを傾けると、甘い香りがふわりと広がる。

 舌に残るまろやかな味と、隣にいる二人の存在。その全てが、今日の頑張りを確かに肯定してくれていた。


(……やっぱり、この場所が一番落ち着く)


 サフィアはスッと目を閉じた。

あと少しで終わります。

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