第22話
緊張で背中がこわばっていたのが、じわじわと解けていくのを感じた。
その瞬間。
「……ねぇ、それって惚気?」
ぽつりと放たれた一言に、顔を上げると、すぐ近くにミーナが立っていた。好奇心全開の笑みで、じっとサフィアの顔を覗き込んでいる。
「の、惚気って……ち、違うから!」
「でもさ、新婚ホヤホヤって感じだったよ」
奥の机からも、同僚たちの笑い声が飛んでくる。
「いやぁ、サフィアさん、あんなに表情やわらかくなるんだなぁ」
「やっぱり新婚って違うんだねぇ」
「ちょ、ちょっと! だから違うってば!」
慌てて否定するが、口元がわずかに熱を持っているのを自覚してしまう。あれは、演技のつもりだった。疑われないための方便。でも、言葉にした瞬間、心のどこかで嘘にならなくなってしまった気がする。
机の上の書類を抱えて、サフィアはそそくさと奥の事務室へ逃げ込む。
背中に向かって「やっぱり惚気だー!」という声が飛んできて、思わず耳まで赤くなった。
事務室のドアを閉めて、ひとりきりになる。
さっきの会話を思い返すと、胸がくすぐったくざわめき、同時に少しだけ苦しくなる。
「……ああ、もう……何やってるの、私」
額に手を当て、小さくため息をつく。
ふと窓の外に目をやると、遠くでさっきの男。レオンらしき姿が街角で誰かに話しかけているのが見えた。
その横顔は、やはり笑ってはいるが、目はまるで笑っていなかった。
「やっぱり惚気だよね〜」「絶対そうだって」
からかいの声がまだ背中に刺さる。サフィアは書類を手にして、できるだけ平静を装おうとした。
「……もう、好きに言ってて」
「じゃあ好きに言うけど、新婚なんだから食卓も華やかにしないと!」
「え?」
「ほら、晩ご飯。普通のパンとスープじゃ味気ないでしょ。何か特別なの作ってあげなよ〜」
「……そういうもの?」
「そういうもの! で、明日感想聞かせてね」
押し切られる形で頷いてしまい、サフィアは内心でため息をつく。それでも、帰り道で市場に寄る自分の姿が、なんとなく頭に浮かんでしまう。
誰かのために何かをする。ほんの少しだけ胸があたたかくなるのを感じてしまった。
商会を出たサフィアは、そのまま市場へ足を向けた。同僚たちに言われた『新婚らしい晩ご飯』という言葉が、妙に頭に残っている。仮初だと分かっているのに……その言葉に、少しだけ心がざわついた。
夕暮れの市場は、屋台の灯りと人々の声でにぎやかだ。焼きたてのパンの匂い、香草を束ねた青い香り、魚屋の氷の上で光る銀色の鱗。籠を片手に歩くだけで、目移りしてしまう。
肉屋の前で足を止め、しばらく考える。
(カイって、肉より魚派かな? どっちだろ?)
よく知らない。けれど、彼の引き締まった体つきを思い出すと、脂の少ない赤身の方が似合う気がした。別の屋台で、艶やかな色をしたパプリカが目に入る。好むかどうかは分からない。でも、あの無機質なテーブルに、こういう色がひとつあれば、きっと映えるだろうそんな想像をして、籠に入れた。
「奥さん、今日は旦那様にご馳走を?」
八百屋の女将が笑顔で声をかけてきた。
反射的に「はい」と答えてしまい、サフィアは頬が熱くなる。
「だったら、この香草も持っていきなさいな。魚にも肉にも合うよ」
籠に香草を足されながら、なんだか背中を押されるような気分になる。
好みなんて分からない。でも、これで笑ってくれたら嬉しい。
そんなことを考えている自分に、驚きと少しの戸惑いを覚える。パン屋で焼きたての丸パンを買い、最後に小さな瓶入りのジャムまで手に取ってしまった。
甘いものは苦手かもしれない。でも、もし食べてくれたら……そんな期待を胸に、サフィアは市場を後にした。
工房に戻ると、扉を開けた瞬間に金属と油の匂いが鼻をくすぐった。奥の作業台では、カイが図面に何かを書き込んでいる。彼は顔を上げ、籠を手にしたサフィアを一瞥した。
「……随分たくさん買ったな」
「ええ。ちょっと気分転換も兼ねて」
「ふーん」
それ以上何も言わず、再び視線を紙に戻す。
あいかわらず素っ気ない態度。けれど、それがなぜか心地よく感じるのはどうしてだろう。
台所に籠を置き、買ってきた食材を並べる。
赤身の肉、パプリカ、香草、焼きたての丸パン、小さな瓶のジャム。
こうして見ると、確かに新婚らしい食卓に見えなくもない。
「……料理するけど、食べるよね?」
「食べる」
短い返事に苦笑しながら、鍋を火にかける。
香草を刻み、肉を焼き、パプリカを彩りよく散らす。
手を動かしながら、ふとカイの方を見ると、彼は作業をしながらも時折こちらに目をやっているのが分かった。
「何?」
「いや、家で誰かが料理してるのが珍しくてな」
「自分でしなきゃ、そうなるわよね」
「……そうだな」
短く返しつつ、視線を戻すカイ。その横顔に、不意に胸がくすぐったくなる。
出来上がった料理をテーブルに並べると、カイが無言で席に着いた。
肉の焼けた香りと香草の匂いが工房に広がる。
「いただきます」
「いただきます」
カイがフォークを手に取り、ひと口。
少しだけ目を細めて、短く言った。
「うまい」
その一言に、胸の奥が温かくなった。ただの礼儀かもしれない。けれど、嘘ではない響き。
「よかった。市場で適当に選んだんだけど、当たりだったみたい」
「……適当、ね」
カイが視線を上げ、じっとサフィアを見た。その瞳の奥に、何かを探るような光が宿っている。
まるで、本当に適当だったのか確かめるみたいに。
「本当だってば。ただ……」
「ただ?」
「あなたが喜びそうかなって、想像で選んだだけ」
一瞬の沈黙。
カイの唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
代わりに、もうひと口肉を運び、静かに食事を続ける。
食後、皿を片付けながら、サフィアは心の中で苦笑する。
それが演技なのか、本音なのか、自分でも分からなくなりつつあった。
片付けを終えると、カイが棚から小さな缶を取り出した。
挽きたての香りがふわりと広がる。
「……コーヒー?」
「飲むか?」
「うん、いただく」
カイが無駄のない動きで湯を沸かし、ドリップを始める。
細く落ちるお湯とともに、香ばしい匂いが工房を満たしていく。その手元を眺めていると、不思議と胸が静まっていく気がした。カップを受け取り、両手で包み込む。
熱が指先から伝わってきて、少しだけ口をつける。苦みと香りが広がり、自然と息が緩んだ。
「……ねぇ、今日ね」
「ん?」
「王宮の使いが、商会に来たの」
カイの手がわずかに止まった。
皆様いつもありがとうございます。




