第18話
『なるほどね』
ロゼが静かに呟く。
『──じゃあ、そろそろこっちも準備、始めるわ』
「準備?」
『それはまだ言えない。でも、間違いなくレイナが動くタイミングをこっちで作る。それまで、見張られても泳いでなさい』
ロゼの声は冷静だった。
けれど、その奥には確かな怒りと決意があった。
昼休みを過ぎ、サフィアは指定された場所、工房の奥、作業台の向こうにある小部屋で、カイとロゼと顔を合わせていた。ロゼが手帳をパタンと閉じる。
「状況は整理できた。昨日の目撃情報と、商会での違和感。ここ数日の足取りも含めれば、あの予定された時間と場所に、レイナが何かを仕掛けようとしているのは明らか」
「私があそこで殺される未来……今のままじゃ、現実になりかねないってことね」
サフィアは冷静に、けれど確実に気持ちを締め上げて言った。
カイは腕を組んだまま、黙っていた。その視線の奥には、葛藤が滲んでいた。
「じゃあ、どうする? あの場所に行くのをやめて、身を隠す?それとも誰かに知らせて、レイナを捕まえる?」
ロゼの問いに、サフィアはゆっくり首を横に振った。
「……私、予定通り行くわ」
「はあ!? 正気? 殺されるってわかってるのに、わざわざ向かうってどういう」
「ロゼ」
遮ったのは、カイだった。
彼は鋭く視線を向けたまま、サフィアに言う。
「本気か? 止めても、行くつもりか?」
「うん。……私は、知りたいの。レイナが、どうして私にあんなことをしようとしてるのか。ずっと一緒にいたのに。私何かしたのかな」
言葉を絞り出すように、サフィアは続けた。
「怖いよ。でも、理由も知らずに怯えて逃げるのは、もっと嫌。だから私、自分で向き合いたい」
沈黙が落ちる。
カイは目を伏せたあと、小さく息を吐いた。
「わかった。でも絶対に、一人では行かせない」
ロゼは呆れ顔を隠そうともしなかったが、それでも肩をすくめるように言った。
「あんた、ほんとバカね。でもそのバカさ、嫌いじゃないわ」
サフィアはふっと笑った。
「明日の夕方だったね」
「場所も確認してる。あの裏通り周囲には人気も少ない」
カイが即座に答える。
「レイナと話す。ちゃんと、直接。嘘でも、ほんとのことでも、聞いてみたい」
「万が一の時は、俺たちが飛び込む。そういう段取りで行くぞ」
頷き合い、計画は動き出した。
***
その日は、風が静かだった。
まだ陽が高い午後、サフィアは一人であの場所へと向かっていた。未来視で見た、自分が殺されるはずだった場所。
背筋が凍るような記憶はある。それでも、ここに来ると決めたのは、他でもない自分自身だ。カイとロゼには、反対された。理由が知りたい。とサフィアが言ったとき、二人はそれ以上止めなかった。
「もし来るなら……」
心のどこかで、ずっとわかっていたのかもしれない。路地の先で笑い声が途切れた。 足音も車輪の軋みも消え、耳に残るのは自分の呼吸音だけ。夕暮れの光が急に鈍くなり、石畳の影が伸びていく。
石畳の曲がり角を抜けたときだった。
その姿は、思ったよりもあっけなく、そこにいた。レイナはサフィアに気づくと、最初こそ驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「サフィア? こんなところで何してるの?」
(ああ、その笑顔。昨日までは、私も同じように返していたよ。何の疑いもなく)
「……レイナ。少し、話せる?」
その一言に、レイナの笑みがわずかに揺れた。
「もちろん……でも、どうしたの? こんなとこで」
静かな場所だった。人気も少なく、街の喧騒も遠い。
「こっちのセリフだよ」
言いながら、サフィアの声は少しずつ震えていた。それは怒りではなく、悲しみに近いものだった。
「ねえレイナ、私、あなたのこと信じてたよ。ずっと、友達だって思ってた」
「なに、言ってるの?」
レイナの顔がこわばる。
その目が一瞬泳いだのを、サフィアは見逃さなかった。
「何かあった? 私に、何か……不満があったの?」
レイナは口を開きかけ、何かを言いかけた。けれど、言葉にならないまま唇を閉ざした。その沈黙が、すべてを物語っていた。
「……私ね、夢を見たの」
サフィアがぽつりと呟く。
「今日ここで、誰かに殺される夢を」
レイナの顔色が変わった。一歩、サフィアが前に出る。
「意識が途切れる前に見たのはあなただった」
沈黙。
レイナの目に、初めて焦りと戸惑い、そして怒りが浮かんだ。
「……そんなの、嘘よ」
「本当に? じゃあ、なんで……ずっと、私の動きを探ってたの?」
サフィアが静かに問う。
レイナの唇が、震える。
「デタラメじゃない?」
「ううん。デタラメじゃない。これは間違いない」
「そう。そうなんだ。実は予知能力でもあった?」
「そんなことはないけど」
「ううんやっぱり、すごいねサフィアは」
「レイナ?」
「あんたばっかり。なんで、いつも、あんたばっかり……!」
掠れた声でそれはレイナの口から漏れた。
その瞬間、すべてが繋がった。
レイナの声は、押し殺した感情が堰を切ったように、かすかに震えていた。
「いつもそう。私は正しい人みたいな顔してさ。周りに頼られて、上司に褒められて、カイ様にまで気に入られて……」
唇を噛みしめ、レイナは目を逸らした。その目に宿った感情は、かつての彼女には似つかわしくないほど、濁っていた。
「それでいて、私なんてって。自信ないふりして、周囲の好意を集めて。どこまで謙遜すれば気が済むの? 全部計算?」
サフィアの胸に、冷たい刃のような言葉が突き刺さる。
(これが、レイナの本音なの?)
「……そんなふうに思ってたの?」
問いかけは掠れた。レイナは少しだけ笑った。けれど、その笑みに宿るのは皮肉と悔しさだけ。
「最初は本当に尊敬してた。憧れてた。でも気づいたの。どれだけ頑張っても、目立つのはあんたばっかりだった。努力してるのは、私だって同じなのに」
声が震える。
「どうして私じゃないの? どうして、いつも、あんたが一番なのよ……!」
その一言に込められたのは、憧れと嫉妬と、拭いきれない劣等感の入り混じった叫びだった。
サフィアは息を呑んだまま、言葉を返せずにいた。
ただ、見つめるしかできなかった。レイナが心に抱えてきた、底なしの感情を。
ずっと、隣にいたはずだったのに。信じていたのに。
彼女は、その陰で、こんな思いを抱いていたなんて。
「……それで、私を殺そうとしたの?」
サフィアの声は、冷たく、静かだった。
その一言で、レイナの肩がびくりと震える。
「ちが……違う……! そんなつもりじゃ、私は……!」
「違わない」
サフィアは首を振る。まっすぐに、レイナの目を見据えた。
「あなたが壊したの。私の未来を。私の居場所を。信頼も、名前も、全部……あなたが、壊した」
「……そう」
レイナの顔から、わずかな逡巡が消えた。
代わりに浮かんだのは狂気だった。
「だったら……もう、全部なくなって。私が代わりになるから」
叫んだ瞬間、彼女の手が懐から何かを取り出した。
薄い刃をしたナイフだった。
「レイナッ……!」
咄嗟に距離を取ろうとしたサフィアの背が、壁にぶつかる。逃げ場がない。
レイナは躊躇なく踏み込んできた。
その目には、もはやかつての優しさも、理性の光もなかった。
「全部、奪われるくらいなら。いっそ、私がそっちになるしかないじゃない」
振り上げられた刃が、サフィアの視界に迫る。その時。
「動くなッ!!」
鋭い声が空気を裂いた。飛び込んできたのはカイだった。
彼の腕がレイナの手首を掴み、ナイフの軌道を逸らす。金属音が響き、刃が床に落ちた。
「カイ様……? どうして……!」
レイナは呆然と見上げた。腕を捻られ、立ちすくむ。
「様づけされるような覚えはないが。しかし、商会で見かけた時と比べて随分と醜い」
カイの声は低く、冷え切っていた。その目は、もう彼女を見ていなかった。
「……レイナ」
震える声で、サフィアが名を呼ぶ。
レイナは、ゆっくりと彼女を見た。
その顔には、もはや怒りも悔しさもなかった。ただ空虚だけが広がっていた。
「なんで、あんたなの……? 私じゃ、だめだったの……?」
ぽろり、と涙がこぼれた。そのまま膝から崩れ落ちるレイナを、ロゼが背後から静かに取り押さえる。
その時、背後の路地に気配が走った。 硬い靴底が石畳を蹴る音。
カイが振り返るより早く、影が路地の奥へ逃げ出す。
「……逃がすか」
低く呟き、カイの足が音もなく地面を蹴った。
わずか数歩で間合いを詰め、男の肩口を掴んで石壁に押し付ける。
乾いた衝撃音が響き、男が呻いた。
「離せ!」
もがく腕を捻り上げ、カイは容赦なく体重をかける。
袖口から覗く深い青の布地が、あの夜の記憶と重なった。
男は悔しげに吐き捨てる。
「頼まれたんだ……あいつに。やらなきゃ、脅されて……」
その言葉に、サフィアは息を呑む。
レイナは目を閉じ、もう何も答えなかった。
路地に再び静けさが戻った。
遠くで鐘の音が響く。
カイは男の腕を縛り上げたまま、短く言った。
「警官が来るまで、こいつは俺が預かる」
サフィアは頷くしかなかった。
沈黙が落ちる。サフィアは、胸に手を当てたまま、ようやく息を吸った。
心臓がまだ、痛いほどに脈打っていた。
「サフィア、大丈夫か?」
カイの声がすぐそばにあった。
「……うん。もう……大丈夫」
けれど、その言葉とは裏腹に、サフィアの目には涙が滲んでいた。信じていたものが、すべて嘘に変わった瞬間。その痛みだけは、簡単には癒えなかった。警官が到着し、抵抗する力すらなくなったレイナを静かに連れ出していった。
ロゼは一言、冷静に「通報は済ませておいたわ」とだけ言った。
その声音には何の揺らぎもなかった。いつも通りの態度にサフィアの心が少しだけ冷静さを取り戻す。
「……怖かった、でしょ」
ロゼがサフィアの隣に立ち、そっと背に手を当てる。その温かさに、サフィアはようやく自分の震えに気づいた。
「平気だよ。もう、終わったから」
そう答えたものの、声が少しだけ掠れていた。涙は出ていないのに、胸の奥がずっと痛い。
「サフィア」
カイの声がした。いつもより低く、優しいトーンだった。
振り向けば、彼が真っ直ぐこちらを見ていた。
「無事でよかった。本当に……よく耐えたな」
カイの言葉は、不器用なのに、心に染み込むようだった。
「でも、私は気づけなかった。レイナのこと、ずっと……信じてたのに」
ようやく出てきた涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちる。サフィアは俯き、拳をぎゅっと握りしめた。
「信じていたからこそ、気づけなかったんでしょ。あの子は、あなたの隣を利用していただけ。……優しい人は、そういう悪意を疑えないのよ」
ロゼの言葉は、決して責めるものではなかった。鋭いが、包み込むような強さがあった。
「……ロゼ」
「まぁ、少しは気にするべきなんでしょうけどね」
その一言に、サフィアの喉がつまった。カイもまた、静かに口を開いた。
「お前が信じたものを否定する気はない。ただ……これからは、自分の気持ちにも、もっと正直になれ。周りの声や評価じゃなく、自分の感覚で人を見ていい」
「……うん」
サフィアは深く頷いた。
そして、ようやく涙を拭き、顔を上げた。
「ありがとう……ふたりとも、本当にありがとう」
その瞳には、もう迷いはなかった。
いつもありがとうございます。まだまだ続きます。




