第17話
朝日が昇り始めた頃、サフィアはカイとロゼに軽く別れを告げ、その足で商会へ向かった。
靴の裏にまだ霧の湿り気が残っている。
寒さではなく、胸の奥にずっと貼り付いている冷たい感触が、昨夜の記憶を何度も呼び起こしていた。
──任務対象。感情的なつながりはない。
その言葉が、ぐるぐると脳内を回る。
歩いているはずなのに、どこか現実味がない。
靴音も、自分のものじゃないみたいに遠くに感じる。
商会の扉を開けたとき、カラン、と鈴の音が鳴った。見慣れた内装。帳簿が積まれた机、朝の光が差し込む窓。
すべてが昨日までと変わらないのに、どこかよそよそしく感じた。
「……おはようございます、サフィアさん」
受付係の若い子が、少し緊張気味に声をかけてきた。
「あ、おはよう。早いね」
笑顔で返すつもりだった。
けれど、口元が引きつって、声が掠れてしまう。
笑顔がちゃんとできていたかどうか、自信がない。
デスクに戻って鞄を置くと、周囲の空気に一瞬、違和感を覚えた。
誰かの視線。
それも様子を探るような、鈍い気配。いや、気のせいだ。多分
「おはよう、サフィア」
ふいに、背後から声がかけられた。
凍りついたような反射で振り返る。
そこには、いつものレイナが立っていた。
いつもと変わらない仕事着。落ち着いたまとめ髪。穏やかで、どこか気の強そうな笑み。
「無理してない? 顔色、少し悪いみたいだけど」
「え……ううん、大丈夫」
言葉が自然に出てこなかった。
レイナの声は優しい。目が笑ってる。でも、昨夜聞いた冷酷な声が、頭の奥で響き返す。
その笑顔の裏に、どんな思考があるのか。目の前のレイナが、まったくの別人に思えた。
「……大丈夫ならいいけど、無理はしないでね?」
レイナは優しい声で言った。いつもと変わらない調子で。
「最近、ちょっと疲れてるみたいだったから。昨日、早く帰ったみたいだし」
「うん……ちょっとね、知り合いに頼まれたことがあって」
出来るだけ平静を装いながら、サフィアは言葉を選んだ。
「急だったから、報告が後になっちゃって、ごめん」
「ううん、大丈夫。帳簿は私が整理しておいたから。伝票のずれも修正しておいたし」
「……ありがとう」
「ねえ、サフィア」
レイナが声を落とした。
サフィアが顔を上げると、彼女は少しだけ表情を曇らせて言った。
「何か、困ってることがあるなら、ちゃんと話してね?」
「え?」
「顔に出てる。サフィアって、悩んでるとすぐ目に出るから」
目を細めるその仕草も、声のトーンも、昨日までと何ひとつ変わらない。
そんな気配が、レイナの微笑の裏に透けて見える。
「……大丈夫。ありがとう」
口元で笑いながら、サフィアは胸の奥で冷たい汗をかいていた。
「最近、帰る時間が遅いけど、あの偏屈な職人のとこ? 仕事とは言え大変ね」
笑いながら、レイナはサフィアの腕時計を指で弾いた。レイナは最後まで笑顔を崩さずに去っていった。
ふわりとした身のこなし。背筋の通った立ち姿。サフィアは、椅子に腰を下ろすと、深く息を吐いた。
喉の奥がじんわりと焼けるように苦しい。あの笑顔が、逆に痛い。
机に肘をつき、額に手を当てる。
午前の業務がひと段落し、商会の空気がわずかにゆるんだ。
昼休みに入る直前、帳簿の最終チェックを終えたサフィアは、書類の山を抱えて廊下を歩いていた。
ふと、先の角で見慣れた後ろ姿を見つける。
レイナが書庫の前、肩からかけた革のファイルバッグを開いて、何かを探していた。
人気は少ない。今なら、聞ける。
サフィアは一瞬、躊躇した。
でも、足が勝手に動いていた。
「……ねえ、レイナ」
呼びかけると、彼女はいつものように顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
「あ、サフィア。どうしたの?」
その笑顔は、何一つ変わらない。
だからこそ、見ているだけで胸が苦しくなる。
「少しだけ、いい?」
「うん、もちろん」
書庫の前、誰も来ない時間帯。
二人きりで立ち話をするには十分な静けさだった。
サフィアは、壁に手をついたまま、ほんの少しだけ間を空けて言った。
「最近さ、なにか……嫌なこと、あった?」
レイナがきょとんとした顔をした。
「……私が?」
「うん。なんか、ちょっとだけ……いつもと違う感じがして」
それは本当だった。
昨日の密会を知らなかったとしても、ここ数日、どこか微細なズレを感じていた。
けれど、今は確信がある。
これは問い詰めるのではなく探る。
レイナの返事次第で、なにかがわかる。
「……なにかあったとしても、仕事に支障は出してないよ?」
レイナはそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
目線を、外した。
「……そういうことじゃなくて。もし話したくないなら無理に聞かないけど……私に、何か隠してない?」
やっとの思いで、言葉を滑らせる。
このまま、わかり合えるならそれでいい。でも、嘘で塗り固められているなら、いっそ見抜きたかった。
レイナは、少しの間黙ってから口元だけで笑った。
「サフィアって、本当に……鋭いね。ちょっと怖いくらい」
「……え?」
「なにかあったのかもね」
それは肯定のようでもあり、煙に巻くようでもあった。
言葉にトゲはない。目元も優しい。
けれどその内側に、手が届かない何かがある。
「でも、大丈夫。あなたには迷惑かけないから」
あなたには。そう言ったその一言が、やけに距離を感じさせた。
「大丈夫。あとのことは任せて」
その言葉を最後に、レイナはそっとファイルを閉じた。
にこりと微笑み、何気ない仕草で肩に鞄を掛け直す。
「また、あとでね」
振り返らず、歩き去るその背中は、余裕に満ちていた。
何かを見透かしていたような。あるいは、すべてを演じていたような。
サフィアはその場に取り残されたように、書庫の扉に指先をかけたまま、動けずにいた。
『あとのことは任せて』
その言葉の意味を、どう受け取ればいいのか。
どちらだとしても、レイナが何かを隠しているのは間違いなかった。
「……っ」
奥歯を噛み締めて、サフィアはようやく呼吸を整える。
レイナの歩幅は、軽かった。それが逆に怖い。
懐のポケットに手を差し込み、魔力通信の装置に指先を添える。
起動の呪文を口の中で小さく唱えると、装置が微かに振動した。
『……サフィア? 聞こえる?』
ロゼの声が、頭の内側に響いた。
『そろそろお昼休憩じゃない? どう、何かあった?』
通信は思ったより普通の調子だった。
だからこそ、少しだけ救われる。
「……うん、あった。レイナと話した」
『様子は?』
「変わらない。すごく自然に、私のこと気遣ってくるし、笑ってた。ただ……」
『観察されてる感じ?』
「そうかも。なんだか見られてる感じだった」
自分でもよくわからない感覚だった。目の動き、言葉の選び方、声の抑揚。
全部がサフィアの反応を見ているように思えてならなかった。
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