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第16話

 風が止まった。

 霧がほんの少しだけ晴れて、通りの奥がうっすらと見通せる。

 その瞬間、ロゼがかすかに手を上げた。


「……来た」


 サフィアは反射的に身を縮め、塀の隙間から通りを覗き込む。

 靴音。乾いた石畳を叩く、一定のリズム。一人いや、二人分。

 角を曲がって現れたその姿を見て、サフィアは息を呑んだ。

 ──レイナ。

 間違いなかった。

 

 髪をまとめ、ダークグリーンの外套を羽織った姿は、商会で見慣れた彼女そのものだった。

 けれど、その顔には一切の表情がなかった。穏やかで、優しげで、誰よりも他人の痛みに敏感だったはずのレイナが、まるで、別人のように冷たい目をしていた。隣には、見知らぬ男がいた。

 黒いフードを深くかぶり、顔はよく見えない。だが背格好や立ち方からして、堅気ではない。

 男の方がわずかに頭を下げ、低く声をかけた。


「……動きは?」

「特に。ただ家を変えたみたい」


 レイナの声だった。

 しかし、そこにはサフィアが知る柔らかな響きがまるでなかった。

 言葉の端々に、冷徹な計算と断言が宿っている。

 サフィアの脳はすぐに意味を理解できなかった。しかし次の瞬間、男が放った言葉がすべてを貫いた。


「処理は予定通り、明後日の午後で?」

「ええ。なんか最近こっちに向けられる視線が違うの。これ以上引き延ばせば、崩れる。やるなら一気に」


 心臓が、どくんと跳ねた。

 明後日、サフィアが見た未来と一致するタイミング。処理、という言葉の意味が、あまりにもはっきりと浮かび上がる。


「……やっぱり、私」


 掠れた声が漏れそうになったのを、サフィアは必死に飲み込んだ。視線の先のレイナは、まっすぐ前を向いたまま、表情一つ動かさずに言葉を続けている。


「わかった。しかし、いいのか?」


 その質問に、レイナはほんのわずかだけ、目を伏せた。

 そして、静かに首を振る。


「ない。彼女は私の邪魔になる」


 その一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。

 サフィアは塀の陰にうずくまり、肩を震わせた。

 寒さのせいじゃない。

 体の芯から、凍りついたようだった。

 あの声。

 あの表情。

 何より、あの言葉。


「……うそ、でしょ」


 掠れた声が、勝手に漏れた。

 感情的なつながりは、ない。

 それはつまり、あの時間もあの笑顔も、

 あの心配するような優しさも『すべて演技だった』と言っているようなものだった。

 いや、本当にそうだったのか?

 それとも、誰かに“そう言わされている”だけなのか?

 答えは出ない。

 けれど、少なくとも今この瞬間、目の前のレイナは知らない誰かだった。


「……サフィア、目を閉じろ。そしてゆっくり息を吸え」


 カイの声がすぐ隣で聞こえた。

 その声でようやく、自分が息を止めていたことに気づく。


「……うん」


 サフィアは短く返し、深呼吸を一つ、二つ。

 手の震えは、まだ止まらない。

 視線の先、レイナたちはさらに数歩進んでから、道の奥へと姿を消していった。

 完全に見えなくなったのを確認してから、ロゼがひとつ息をついた。


「予想より、はっきりした会話だったわね」

「処理って単語、はっきり使ってた。殺す気満々だな」


 カイが短くまとめると、ロゼが視線を落とし、ぼそりと呟く。


「……あの顔。あなた、知ってた?」

 

 問われて、サフィアは答えられなかった。知っていたはずの人。信じていたはずの人。

 でも今のレイナは、あまりにも遠い。


「……知らなかった」


 さっきまでのやり取りを、頭の中で巻き戻す。

 レイナの声。笑い方。目の動き。

 そのすべてが自然で、柔らかくて、今までと同じだった。


「……さっきのあれは……何だったの?」


 思わず、誰にでもなくつぶやく。

 冷たく、任務対象だと断じたあの声。いつものレイナと先ほどまで目の前にいたレイナ。

 いったいどちらが本当の顔なのか。もしかして、両方とも本物なの?

 その考えがよぎった瞬間、背筋がひやりとした。

 人に見せる顔と、仕事の顔。

 

 信頼を寄せるときと、任務に徹するとき。

 どちらも本物で、ただ、自分が知らなかっただけなのかもしれない。


「……私、何も見てなかったんだな」


 その言葉が、やけに静かに響いた。

 レイナの優しさに支えられてきた。

 彼女と一緒に働くのが心地よかった。

 それを信頼と呼んで、疑う余地なんて持たなかった。

 でも、それはもしかしたら、信じたいように見ていただけだったのかもしれない。

 冷たくて、揺るがなくて、

 感情なんて一片も見せなかった。


 あんなレイナを、サフィアは一度も見たことがなかった。

 見せられなかったのか、見ようとしてなかったのか。

 絞り出すようにようやくそれだけ言えた。ロゼは何も言わなかった。

 サフィアの反応を見て、それ以上突き放すことも、慰めることもしなかった。

 ただ、黙って立ち上がると、淡々とカイに報告する。


「……私は、どうすればいいの?」


 ぽつりとサフィアが尋ねる。

 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるようだった。

 カイが静かに答える。


「このままだと、君はあさっての午後に殺される。未来の通りならな」


 その言葉が、背筋に突き刺さった。

 そう。この会話は、あの未来の映像に一致している。


 「やられる前に」「処理」「記録の削除」


 すべてが繋がってきた。

 あの景色が現実になれば、死ぬ。

 単純な論理。けれど、それはサフィアの胸をえぐるように鋭く突き刺さった。


「じゃあ、私はレイナたちに殺される運命にあるってこと?」


 問いというより、確認に近かった。

 カイは即答しなかった。ただ数秒、真っ直ぐにサフィアを見たあと、低く告げた。


「このまま何もしなければ、そうなる」


 その静かな言葉に、逃げ道はなかった。サフィアはぎゅっと拳を握る。

 思い出すのは、あの未来の映像。冷たい床。息が止まりそうになる痛み。

 何より、誰もいない孤独。

 それが、たった数日後の自分だという現実。


「……じゃあ、やる。変える。変えてみせる」


 声は震えていた。でも、意思は確かだった。

 ロゼが短く頷く。


「じゃあ、まずは情報の整理。今日の記録、痕跡の再構成、あと、見られていた可能性の検証」

「……え?」


 サフィアが驚いてロゼを見た。


「どういうこと?」

「向こうが気づいてないかとかね」

「……!」


 その一言に、背筋がぞくりとした。

 確かに。気のせいかと思った視線の向き。わずかに止まった足音。


「……もし気づかれてたら?」


 その場で口封じ。なんて言葉が脳裏をよぎったが、カイがその疑問を断ち切る。


「だからこそ、今すぐ戻って解析する。奴らがどう動くか、先に知る必要がある」


 カイが立ち上がり、ローブの裾を払う。

 ロゼもすぐに動いた。もうすっかり戦闘モードに入っている。

 サフィアは最後に、もう一度さっきの路地を振り返った。

 そこにはもう、誰もいなかった。

 けれど、あの言葉が、あの視線が、耳と胸にこびりついて離れない。


──あさっての午後、彼女は“処理”される。


 あのレイナの冷たい声が、未来をなぞろうとしている。


「……レイナ。私、あなたと話さなきゃいけない」


 小さく呟いたその言葉は、誰にも聞こえなかった。

 だが、それは確かに、サフィア自身の決意の始まりだった。

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