第14話
カイが立ち上がると、奥の棚へ向かった。見慣れない書類や古びた紙束、そして革張りのノートのようなものをいくつか抱えて戻ってくる。
「そもそも、誰かに恨まれたりすることはあるのか?」
「ない。と思ってる」
「まぁそうだろうな……」
苦笑が漏れた。涙ではない。ただ、少し笑いたかった。こんなに苦しいのに、カイの顔を見ていたら、不思議と気が緩む。
「ねぇカイ。あんたは誰が私を殺すと思ってるの?」
ストレートな問いかけに、カイは一瞬だけ眉を寄せた。
「そこまでは特定できていない。でも、ヒントはある」
そう言って広げた紙のひとつに、装置が記録した未来の映像の解析ログが載っていた。
「君が死ぬ未来の直前。時間は夜、場所は……あの大通り沿いの旧市場付近」
「え、それって……!」
サフィアは思わず目を見開く。
「あそこ、近々再開発祝賀式がある。私、その担当者のひとりだよ。商会の営業チームとして」
カイが静かにうなずいた。
「やっぱり……その場が、何かの分岐点になる」
「じゃあ、それまでに何が起きてるか、調べなきゃ。商会の中でも……私に敵がいるってこと?」
「敵というより、お前の死に関わっている人物が君の近くにいる可能性が高い」
背筋が粟立つ。
「……レイナ」
「ん?」
「さっき触った時に聞こえたのは間違いなくレイナの声よ」
「知り合いか?」
サフィアはゆっくりと頷く。
あの柔らかい声、語尾のクセ、微かな舌打ち。確信があった。
「だけど、誰と話してたのかまでは……」
「声の主は一人しか再構築されなかった。もう一人は弱すぎたんだろう。痕跡が残ってなかった」
カイが静かに言う。
「でも、十分な収穫だ」
サフィアは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく何も言わなかった。
心の中で何かを必死に押しとどめるように、唇を噛み、呼吸を整える。
「……レイナは、昔から一緒だったの」
ぽつりと、呟くように言った。
「同じ商会の育成組にいた頃から、ずっと。同期で、競い合って、笑い合って。落ち込んでる時は、先に声をかけてくれて、嬉しいことがあると真っ先に話しに来てくれた。彼女がいたから、今の私があるって……ずっと、そう思ってた」
淡々と話す声の奥に、かすかな震えが混じっていた。
「自分より優秀な子に嫉妬する人も多かったけど、レイナは違った。誰かを蹴落とすような子じゃなかった。どんなに仕事が忙しくても、愚痴一つこぼさず、ちゃんと見てくれて……信じてたのに」
言葉が途切れる。
サフィアは指先を握りしめ、ほんのわずかだけ、涙ぐみそうな目を伏せた。
「……ふーん」
その沈黙を、破ったのは別の声だった。
乾いたトーンで、小さく鼻を鳴らすような声が工房の片隅から聞こえた。
ロゼだった。
椅子に腰かけていた彼女は、組んでいた腕を解いて立ち上がると、サフィアの方へゆっくりと歩み寄る。
「それ、本当に親友って呼べるの?」
「……え?」
サフィアが顔を上げると、ロゼはどこか冷めたような目で彼女を見下ろしていた。
「素晴らしい思い出話だけど、今の話を聞いた限りだと、見方によってはずっとサフィアに嫉妬してたんじゃない? 何かないか。って見てたのかも。私の性格が良くないからそう見えるだけかもだけど」
サフィアの顔がこわばる。
カイが「ロゼ」と低く名を呼んだが、ロゼは構わず続けた。
「それに、サフィアがその子を疑ってるのも、きっと無意識には分かってたんじゃない? だから、あの声を聞いてすぐ名前が出た」
「……っ」
図星だった。
あの声を聞いた瞬間、サフィアの中でレイナかもしれないという確信めいた予感が走っていた。
信じていたはずの親友を、疑っていたのだ。どこかで。
「……最低だよね、私」
絞り出すような声で呟いたサフィアに、ロゼは肩をすくめて言う。
「違うわ。疑うことができる人間の方が、よっぽどまとも。信じたい気持ちにしがみついて、見ないフリしてたら、殺されて終わりよ」
その言葉は冷たいようでいて、どこか本質を突いていた。
サフィアは何も返せず、ただ拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
「ロゼ。言い方ってもんがあるだろ」
ようやくカイが口を挟んだ。
だがその声に怒気はなく、むしろ穏やかで抑えられていた。
ロゼは軽く眉を上げて、そっぽを向く。
「私は事実を言っただけ。誰もが善人だなんて思い込む方が危ない」
そう言って、作業台の隅に置いてあった紙束を手に取ると、くるりと背を向けて作業スペースへ戻っていく。
足音も、立てないほど静かだった。
カイは息を吐き、そっとサフィアの肩に手を置いた。
「ロゼの言い方はきついが、あいつなりに君のことを心配してる」
サフィアは黙って頷いた。
不思議と涙は出なかった。ただ、胸の奥に張り付いた氷のような冷たさが、少しずつ形を変えていくのを感じていた。
信じていたレイナ。
支えられていたはずの存在が、もしも最初から見ていたのだとしたら。
あの優しさも、声も、すべてが偽りだったのだとしたら。
「……でも、それでも」
サフィアは顔を上げた。
「レイナが全部を仕組んでたとは、まだ思いたくない。少なくとも、私が見てきた彼女の全部が嘘だったなんて、すぐには割り切れない」
「そうだな」
カイの返事は即答だった。
迷いのない声に、サフィアの瞳が揺れる。
「信じることと疑うことは、両立できる。心を切り離して、事実を見るんだ。感情は後回しでいい。今は、君の命が懸かってる」
その言葉は鋭かったが、痛みを伴わない強さだった。
だからこそ、サフィアの胸にまっすぐ届いた。
「……うん」
深く頷くと、彼女は拳を緩めた。
ふと、カイがテーブルに広げた装置の隣に、地図のような紙を取り出した。
そこには、いくつかの街の名前と、魔力波動の痕跡を示す印が記されている。
「これ、なに?」
「さっきとは違う資料だな。装置が拾った魔力の発信源だ。その痕跡は、事件が起きる数日前の夜、君が帰宅した後のものだと推測できる」
カイは紙の一点を指差す。
「この地点に、強い波動の残り香があった。少なくともこの近くに、彼女と話していた相手がいたはずだ」
「そこに行けば……何か分かる?」
「ああ。もしくは、誰かが残した“足跡”があるかもしれない。魔力の濃度や、焦げた痕、足取りの跡──痕跡が残っていれば、追える」
サフィアは静かに頷いた。
そう、今は前を向くしかない。
答えがどれほど残酷でも、自分の足で確かめなければならない。
工房の隅で、ロゼは黙々と何かを組み立てていた。
工具の音、紙をめくる音、魔力をこめる微かな振動。
それらが工房全体に溶け込むように、静かに流れていく。
カイがそっと近づいて、肩越しに覗き込む。
「……拗ねたか?」
「別に」
ロゼは顔を上げずに返した。
「ただ、ああいう信じていた人が疑わしいって展開、正直見てて疲れるの。傷つくのが分かってるのに、わざわざ自分で確かめに行こうとするなんて愚かに見える」
「でも、それができる人間は強いと思うがな」
ロゼの手が止まった。
その言葉には、どこか優しさと敬意が混ざっていた。
「……そんなの、無理してるだけじゃない」
ぽつりと落とされたその声には、わずかな棘と、自嘲の気配が混じっていた。
カイはそれに応えることはせず、ただ静かに背を向ける。
一方、サフィアは机に両手をつき、地図の一点をじっと見つめていた。
「……明日、朝一番でそこに行く。単独じゃない。カイ、あなたも来て」
「もちろん」
「ロゼも、来てくれる?」
その言葉に、ロゼがぴくりと肩を動かした。
ほんのわずかだが、戸惑いがにじんだ。
「私に何を期待してるの? あなたと違って、私は人を信じるのが得意じゃない」
「だから、いてほしいの」
サフィアの声は静かだった。
「私は、今まで信じることしかできなかったの。疑うことも、切り捨てることもできなかった。でも、あなたは違う。あなたみたいな人が隣にいれば、見逃さずに済む気がするから」
ロゼは数秒沈黙したあと、小さく鼻を鳴らした。
「面倒ね、ほんと」
そう言いつつも、彼女は作業を終えた小さな魔道具を手に取り、ポケットに収める。
「明日、寝坊したら置いてくから」
それが彼女なりの「行くよ」という返事だった。
カイがわずかに笑い、サフィアは胸の奥でふっと力が抜けるのを感じた。
怖いことに変わりはない。
でも今は、孤独じゃない。
信じきれない自分も、疑ってしまう親友も、
言葉をぶつけてくれる誰かも。全部を抱えて、前に進むだけだ。




