第13話
工房の戸を開けると、明かりはついていなかった。カイはまだ戻っていないらしい。居間に明かりをともすと、ふと、机の上の装置に視線が引き寄せられる。それは、カイが「絶対に触るな」と言っていた装置だった。
ガラスのドームの中に、不思議な金属の針と、精巧な歯車がいくつも組み込まれている。
目を逸らそうとしたはずなのに、なぜか指が、勝手にその表面に触れていた。
「……っ」
瞬間、視界が白に染まる。まるで水面を覗き込むような、不思議な映像が浮かび上がった。
最初はノイズばかりだった。
だが徐々に、人影のようなものが現れ──言葉が、重なった。
『……やりすぎは、まずいわよ』
女の声だった。
優しげなのに、どこか突き放すような調子。穏やかで、聞き覚えのある声。
サフィアは目を見開いた。
「……レイナ?」
声が震えた。
『あの子、勘がいいのよ。気づかれたら厄介だって、前にも言ったじゃない』
『…………』
『だから、静かに処理しないと』
そこで音声は途切れた。映像もぼやけ、霧のように散っていく。
工房の空気が、しんと静まり返る。
息ができなかった。重い沈黙が耳を塞ぐ。
脳裏に流れ込んできたのは、断片的な映像だった。
真っ赤な液体に染まる地面。崩れる誰かの身体。
誰かが叫んでいる。何かを止めようとしている。
けれど、間に合わなかった。
そこに倒れていたのは、自分自身だった。
サフィアは、息を飲んで飛びのいた。けれど心臓の鼓動はまだ早く、手のひらから伝わる冷たさは消えない。
「うそ……私が……死ぬ……?」
息が震える。頭を振って否定しようとするも、映像の鮮明さがそれを許してくれなかった。
そこへ、背後の扉が開く音がした。
「……おい、サフィア? 灯りがついてるから帰ってきたのはわかってたが……どうした?」
カイの声が一瞬止まり、彼女の表情と、背後の装置に視線を移した。
「……まさか、触ったのか」
その低い声に、サフィアは振り返った。彼の瞳には怒りと、そして……言いようのない悲しみが宿っていた。
まるで夢のようだった。どこか現実感のない、ぼんやりとした映像。だけど、そのなかで倒れているのは、間違いなく自分だった。
胸がざわつく。心臓が冷たくなる。
(いまの……なに? あれは……私?)
背筋を伝って、冷たい汗が流れる。
けれど、視界に映った映像は、はっきりと焼きついていた。
誰かの腕に抱かれたまま、動かない自分。自分を支える彼の顔が泣きそうに歪んでいて。
サフィアの喉が音もなく震える。
(死ぬの? どうして……?)
理屈も筋も通らない。だけど、装置がこれから起こることを明示するのだとすれば、それは避けがたい事実なのだろうか。
動悸が止まらなかった。
サフィアは肩を跳ねさせ、思わず立ち尽くしたまま彼を見た。カイの目は、淡々としていた。でも、よく見ればその奥に、凍りついたような緊張が走っている。
ほんの一瞬、沈黙が落ちた。
「見たのか?」
一言。カイはそれ以上は言わなかった。
サフィアは、息を呑む。
答えるべきか迷ったけれど、口が勝手に動いた。
「……これは何?」
カイは、目を伏せた。そして、少しだけ声を落として呟いた。
「未来の断面をただ、ランダムに映す機械だ。作ったはいいが悪趣味なものを見せるからしまっておいた」
ランダム。選べない。望んでもいないのに、死ぬ自分を見た。
サフィアは唇を噛みしめた。
「それで、私……死ぬの?」
「……」
答えはなかった。でも、その沈黙が何より雄弁だった。
サフィアは、震える声で問いかけた。
「じゃあ……知ってたの? カイはあれを、見たの?」
カイのまつげが、わずかに揺れた。
彼は、答えなかった。
それが、すべてを物語っていた。
サフィアの中で、点と点がつながっていく。
急に泊まるように言われたこと。工房に寝泊まりしろと強引に言ってきた理由。何かに急かされるような、彼の焦燥。
全部、知っていたのだ。
彼は、サフィアの死を知っていた。
それを、どうにか変えようとしていた。
「……なんで」
声が震える。
「なんで……教えてくれなかったの……!」
涙がこぼれる。怖い、悔しい、悲しい。けれど、それ以上にカイがずっと、ひとりで抱えていたことが、苦しかった。震える声が、夜の静寂を裂いた。
言葉にするつもりはなかった。けれど、目にした映像があまりにも鮮烈で、叫ばずにはいられなかった。
機械から手を離してサフィアは後ずさった。足がもつれて倒れかけたところを、カイが抱きとめる。
「落ち着け。大丈夫だ」
聞き慣れた声。体温。香り。
カイの腕に支えられて、ようやく立っていられた。けれど、頭の中はぐちゃぐちゃで、どうしていいかわからない。カイは、俯いたまま一言だけ、ぽつりと呟いた。
「変えられる未来なら、言葉より先に、手を動かすべきだろ」
サフィアの肩を強く引き寄せて、額を彼女の髪に軽く押し付けた。
「お前がこの家にいる限り、絶対にそうはさせない」
「え?」
「だから泊まれって言ったんだ。未来が変えられるかはわからない。でも、少なくとも、俺の目の届く場所にいてくれたら……避けられることもある。かもしれない」
その言葉の重さに、サフィアの胸の奥がズキリと痛んだ。
思わず彼の胸に縋ると、その背に腕が回された。
誰よりも不器用で、誰よりも偏屈で、けれど誰よりも優しい。そんなカイの温もりが、背中に広がった。
「俺は、どこかで、自分だけが知った未来なんて、変えられないと思っていた。ただ、あの未来を見て、お前がいなくなるとわかった時……遅すぎたって思った」
ぽろっと、一粒、涙が頬を伝った。
それが、誰のものかはもう、わからなかった。
「だから、変える。もう一度だけチャンスがあるなら、俺は、お前を失いたくない」
夜の工房に、決意の声が響いた。
その言葉が、私の胸にまっすぐ刺さって、もう、逃げられなかった。
カイの手が、そっと私の頬に触れた。冷たい指先。でも、震えていたのは、私の方だった。
カイの視線が、まっすぐ私を見ていた。
ごまかしも皮肉も、そこには何ひとつない。
「あんな未来、絶対に見せたくなかった」
掠れた声だった。
私の知っているどのカイとも違う。強くて、自信家で、どこか人を突き放すようなあの人が、こんな風に自分の気持ちをむき出しにするなんて。
心臓が喉までせり上がる。
何かを返そうとした唇を、カイの指がふさぐ。優しく、震えるように。
ずるい、なんて。
そんなこと、あるわけない。
(あなたが、そんな気持ちで私を見ていたなんて知らなかった)
サフィアは、思わず手を伸ばしていた。
カイの胸に触れる。
早鐘のような鼓動が、指先に伝わった。
「……知ってたら、私だって」
涙がこぼれそうになって、慌てて唇を噛んだ。
でもその前に、彼が、私の肩を抱き寄せてきた。
体が近づく。
唇が触れそうになる。
「……サフィア」
カイの声が耳元で囁く。
もう、理屈じゃなかった。
気づいた時には、唇が重なっていた。
やわらかく、熱く、でも切なげでふたりの気持ちが、初めて、真正面からぶつかり合ったキスだった。
唇が重なった瞬間、世界の音がすべて遠のいた。
ひどく温かくて、少し切なくて、涙が出そうになる。
それはほんの一瞬のことだった。
カイの肩にそっと手を置いて、押し返す。
「……ダメ」
囁くように、でも確かな声音でサフィアは言った。
カイが息を呑み、彼女の目を覗き込む。その瞳に宿るのは拒絶ではなく、決意だった。
「今のは感情のまま……だったわ。けど、それだけじゃ足りないの。未来を変えるって、そう簡単なことじゃない」
カイの瞳が揺れる。彼女の額に自分の額をそっと当て、静かに言葉を返す。
サフィアの喉の奥が震えた。触れられそうで触れられない距離が、もどかしくて苦しい。
「じゃあ……ちゃんと、考えましょう。あなたが見た未来をどう変えられるのか。わたしたちで」
サフィアはそっと手を伸ばして、カイの頬に触れた。
「教えて。どこから、始めればいいの?」
静かな決意。サフィアの声は小さくても、濁りがなかった。
「私、未来がどうなってるかなんて、見たくなんてなかった。でも、見た以上、知らなかったことにはできない。だったら……どうしたらいいかを考えたい」
「サフィア……」
カイが名前を呼ぶ。その声には、尊敬と、愛しさと、後悔と、赦しのような複雑な色が混ざっていた。
「どうして死ぬのかも分からない。でも、きっと原因はある。あの装置はただの予測でしょう? なら、違う選択肢を選べば、未来は変わるかもしれない」
サフィアの両手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「変える方法、あなたは知ってる? もしくは……知ってそうな誰かとか、資料とか」
「ある」
カイの答えは即答だった。迷いのない声に、サフィアの目が見開かれる。
「……あるの?」
「全部を確かめたわけじゃない。けど、断片的に手がかりはある」
カイは一度言葉を止め、少し口元を歪める。
「……ああいった未来を、俺は一度、他の人間でも見たことがある」
心臓が跳ねた。サフィアはそれを悟られまいと必死に息を呑んだ。
「その人も……死ぬ未来だったの?」
「まぁそこまでではないが。その人は選択を変えた。結果、その未来は訪れなかった」
それは救いのようにも、予兆のようにも聞こえた。
「サフィア。……君の未来を、君自身が選べるようにしたい。それが、あの時の後悔を超えるための、俺の答えだ」
熱のこもった声が、まっすぐサフィアの胸を撃ち抜く。胸が熱い。息苦しい。でも、それが希望だと思えた。
「じゃあ……私、あんたと一緒に考える。全部を話して。私も、できる限り動くから」
迷いはなかった。
愛する誰かの腕の中にいるのも、命を賭けて未来を変えるのも、どちらも本気で望んでいる。
皆様いつもありがとうございます。




