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第11話

 翌朝、サフィアはいつもよりも少し早く商会に顔を出した。

 まだ開店準備もままならない時間だったが、誰かに見られるのが嫌で、それを避けたかったからだ。

 案の定、レイナは先に来ていて、帳簿をめくりながらコーヒーをすすっていた。


「あら、早いのね? 珍しい」

「気になることがあってね」

「ふーん……ああ、そういえば昨日の夜、街に不審者が出たって話、聞いた?」


 何気ないふうに切り出された言葉に、サフィアの指がぴたりと止まる。


「不審者?」

「うん。西区画の裏通り、ちょうど……あの偏屈職人の家の近く、だったかしらね?」


 レイナはさらりと言いながら、ちらりとサフィアの顔色を窺う。


「それ、誰から聞いたの?」

「お客様からよ。ちょっと怖かったって。ほらサフィアもあの辺り良く通るから」


 レイナは軽く微笑んだ。


「あ、ありがとね」


 サフィアは机の上の書類をまとめ直すふりをして、その視線を避けた。

 あの夜、誰にも言っていないはずだ。カイの工房に行ったことも、彼の家に住むことになったことも。


 胸の奥がざわつく。だが、いまは騒ぎ立てる時ではない。

 サフィアは努めて平静を装いながら、小さく笑って返す。


「変な話。でも、気をつけないとね。私も遅くまで仕事してること多いから」

「ええ、そうね。ほんと、気をつけてね」


 意味ありげな言葉を残し、レイナは立ち上がった。

 朝から降ったり止んだりを繰り返す空模様のせいか、いつもの市場通りは少し静かだった。けれど、サフィアの足取りはいつも通り軽快だ。彼女は慣れた調子で取引先の帳簿を確認し、職人たちの注文伝票を手際よく捌いていく。


「次は……蒸留器用の継ぎ手、だったわね」


 ふと背後に気配を感じた。ちらりと振り返っても、そこには誰もいない。けれど──何かがひっかかる。微かな違和感が、肩に薄く積もる。

 昨日も、そしてその前も、誰かに“見られている”ような──そんな感覚が何度かあった。ただの思い過ごしと片付けようにも、それは日に日に濃くなっていく気がしていた。


(仕事中に気を抜くなんて……)


 そんな折、商会の入り口が騒がしいのに気がついた。

 何か珍しいことでもあったのだろうかとサフィアが顔を出すと渦中の人物と目が合った。


「忙しいところ悪いな」

「……っ! カイ!?」


 顔を覗かせる者がいる。それだけ、彼の姿がこの場に現れるのは珍しいのだ。

 現れたのは、まさかの人物。サフィアが目を見開くのも無理はなかった。偏屈で引きこもりがち、納品以外でもまず外に出てこない男が、よりにもよって商会の店舗にやってきたのだ。


「……っ!」


 レイナは、即座に表情を整え、髪を耳にかけながら彼に歩み寄った。


「カイ様。お珍しいですね。今日は何か――」

「通りすがりだ。別に用はない」


 冷たくも平坦な声音で、レイナの言葉を遮るように言い放った。

 一瞬だけ、レイナの笑顔が固まる。けれどすぐに、商会の顔としての仮面を貼り直すように、にこりと口元だけで笑う。


「そうですか。お時間があるなら、お茶でも――」

「断る」


 ぴしゃりと返され、レイナの指先がピクリと動く。

 言葉を足すこともなく、彼は視線を店内に一度だけ滑らせると、そのまま踵を返した。


「本当に、嫌な男」


 レイナの吐息混じりの声は、誰にも聞こえないほど小さかったが、かすかに震えていた。


「一体、今日はどうしたの?」

「ちょっと渡したいもんがあってな。あと、顔を見に来た」


 さらりと言ったカイに、周囲の職員がちらちらと視線を送る。サフィアは咄嗟に言葉を失った。声を潜めるようにして、カウンターの奥に彼を誘導する。


「変なものでも食べた?」

「いや……何もなければ、それに越したことはない」


 一拍、間を置いたその言葉に、妙な重みがあった。サフィアは眉をひそめながら彼の顔をのぞき込む。彼の目はどこか探るように、そしてなにかを確かめるように彼女を見つめ返していた。


「……何、それ」

「気にするな。ただの虫の知らせってやつだ」


 口調は淡々としていたが、その奥にあるものは、いつもの彼とは少し違っていた。何かを隠している。だが、それが何なのかまでは読み取れない。


「……あのさ、さっき、誰かに見られてる気がしたの」

「誰に?」


 その瞬間、カイの声音が変わった。ほんのわずか、だが明らかに鋭くなる。


「……分かんない。ただの気のせいかも。でも、急に来るから、まさかカイじゃないかって」

「俺じゃない。そもそも覗きなんて趣味はないし、する必要もない」


 言い返す彼の声は、どこか不機嫌で、しかしその背後には別の感情が見え隠れしていた。それは心配。あるいは、焦り。

 サフィアが黙り込むと、カイはおもむろに懐から小さな紙包みを取り出した。


「これ、持っておけ。少しだけど緊張を和らげる作用がある」

「……ありがとう。でも、なんで?」

「理由が要るか?」


 彼は、それだけ言って踵を返しかけ、しかし、途中でふと立ち止まり、振り返った。


「なにかあったら、絶対に一人で抱え込むなよ」

 

 そう言って、今度こそ店を出ていった。

 扉の鈴が、また控えめに鳴った。

 その直後、隣にいたレイナが思い出したように呟く。


「ねえ……さっき、変な男の人が路地のほうにいたんだけど。あなたのこと、じっと見てた気がして……気のせいかもしれないけど」

「良く気づくわね」

「ほら、私、人様の視線に敏感だから、あ、それよりもさ、さっきの感じいかにも職人。って感じだね」

「傍若無人なだけだと思うけど」


 レイナはふっと笑って、表情を取り繕う。けれど、その目にはほんのわずかに陰りが見えていた。サフィアはそれを見逃さなかったが、あえて言及はしなかった。

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