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第10話


 カイが眉を上げる。興味を引かれたようなその反応に、サフィアの頬がわずかに熱を持つ。だが、すぐに顔を引き締める。


「まず。勝手に部屋に入らないこと。ノックもなしに入ってきたら、ぶっ飛ばすから」

「ぶっ飛ばす……」


 カイが小さく笑った。サフィアはむっとして、さらに続ける。


「部屋の鍵も渡さないから。それから、生活の時間を勝手に崩さないで。朝は静かにしてほしいし、私は夜お風呂に入るから、覗いたら本気で殺すわよ」

「……夜って、何時くらいのことだ?」

「八時から九時の間。入ってくるなって意味よ」


 キッと睨むと、カイは小さく肩をすくめた。


「了解。覗かない。入らない。朝は静かに……あと何かある?」

「まだあるわよ。私、仕事柄、資料を広げっぱなしにすることがあるから、そういうのを勝手に片づけたりしないで。あと、男の家に未婚の女が入り浸ることの意味、ちゃんとわかってる? 外には一緒に住んでるなんて言わないでね」


 早口になっていく自分に気づきながらも止まれない。これは自分の尊厳の問題だ。

 でも、目の前の男はそんなサフィアの必死な理屈を、どこか楽しそうに見ていた。


「言わないな。そっちも誰にも言わないでくれよ」

「当然でしょ。あんたも、変な勘違いしないで。私はあくまで一時的に、便宜上ここに住むだけだから」

「うん、うん」


 うなずくカイがどこまで本気で聞いているのかは分からなかったが、とりあえず話は通じた。

 サフィアは椅子から立ち上がると、少し早口に言った。


「じゃあ、明日の夜から荷物を持ってくる。……それまでに、寝床はちゃんと片付けておいてよね」


***

 部屋に戻ると、サフィアは肩から鞄を下ろし、大きく息をついた。

 重たいはずの荷物は最小限にまとめたが、心のほうがずっしりと重かった。

 カイとの同居。まだ現実感はなかった。


「とりあえず、必要なものだけ持っていこう……」


 呟きながらローテーブルの上を片付け、棚の整理を始めた。

 そうしていると、タイミングを測ったかのように、扉をノックする音がした。


「サフィア? 入っていい?」


 声の主はレイナだった。

 サフィアが返事をすると、扉が開き、レイナが軽く顔を覗かせる。


「サフィアー? 大掃除?」


 ドアを開けると、レイナが顔を覗かせた。いつものように無邪気な笑みを浮かべているが、その目は何か探るように鋭い。


「ちょっとだけ……引っ越しというか、居候というか」


 サフィアは手にした布地の束をクローゼットに押し込むようにして言った。


「へぇー、どこに?」

「……守秘義務があるから言えない」


 曖昧に答えながら、サフィアは視線を合わせない。レイナはその様子を見て、口角を少しだけ上げる。


「ふーん? でも会社には来るんだよね?」

「もちろん。今の案件、途中だし。止めたら首飛ぶわ」

「まあ、それはそうだねぇ」


 レイナは部屋の中をちらりと見渡しながら、一歩踏み込んでくる。


「最近、この辺でちょっと変な人見かけたって話、聞いた?」


 サフィアは、ほんの一瞬だけ動きを止めた。だがすぐに平静を装い、荷物の紐を結び直す。


「……知らない。誰の話?」

「ご近所さんの噂。背が高くて黒い服着た無愛想な男が、よく人の家の前うろついてるって」

「へえ、気をつける」


 努めて淡々と返すサフィアに、レイナは少しつまらなさそうに目を細めた。


「ま、気にしすぎかな。変な人に捕まらないようにね?」

「ありがと。気をつける」


 レイナはにっこり笑って手を振ると、特にそれ以上詮索もせずに去っていった。

 サフィアはそっと扉を閉め、バッグの取っ手を握りしめた。


***

 カイの家に足を踏み入れると、ほんのりと金属の香りが鼻をかすめた。

 それは工房で感じたものよりもずっと淡く、家としての穏やかさと混ざり合っている。


「……ふうん。意外と、片付いてるんだ」


 玄関から見える範囲だけでも、整然とした棚や掃除の行き届いた床が目に入り、サフィアは思わず感心してしまう。もっと雑然とした空間を想像していたのだ。

 振り返ると、カイは荷物の一部を持ったまま無言で扉を閉めていた。


「まぁ、客を迎えるようなことなんて滅多にないが、汚いよりはマシだろ」

「掃除してくれたんだね。ありがと」

「……いや。常にこの程度にはしてる。お前の想像が汚すぎるだけだ」


その言葉に、サフィアはふっと笑う。

まったく愛想のない男だが、それもまた彼らしい。変に取り繕われるよりも、こういう率直さの方がむしろ居心地がいい。カイが先に上がり、荷物を脇に置くと、指で小さく廊下を示した。


「こっちが客間だ。寝具と棚は用意してある。足りないものがあったら言え」

「了解……っていうか、客間?」

「俺の部屋に入るか?」

「まさか。死んでもイヤ」


 即答するサフィアに、カイはわずかに目を細めたが、何も言わずに歩き出した。

 彼の後について行くと、数歩で小さな部屋に辿り着く。

 日当たりがよく、余計な家具はないが、清潔で質の良いリネンが揃っている。


「思ったより……ちゃんとしてる」

「最初に言っただろ」

「でも、寝相が悪くて壁に穴あけるかもしれないなら」

「やめて」


 サフィアは笑いながら窓を開け、外の空気を吸い込んだ。

 外はすでに日が傾きはじめており、柔らかな光が部屋の床に模様を描いている。

 なんとなく、ここで新しい生活が始まるのだという実感が、胸にじわじわと湧いてきた。


「じゃあ、荷物整理しちゃうから。邪魔しないでね?」

「俺は作業場にいる。何かあったら呼べ」

「……うん」


 カイが部屋を出ていくと、扉の音が軽く鳴って静寂が訪れた。

 サフィアはようやく深呼吸をひとつ。


(……さて。新生活、スタートってわけか)


 独り言のように小さくつぶやいて、彼女は荷解きを始めた。

 服を畳み、持ち込んだ書類を棚にしまい、化粧道具や日用品を定位置に並べていく。

 不慣れな空間だが、手を動かすことで徐々に緊張がほぐれていくのを感じる。


 しばらくして、整えられた部屋を見回して、ふと笑みが浮かんだ。

 ふと、遠くから金属を叩くような音が微かに聞こえてきた。

 カイの作業の音だ。

 彼がすぐそばにいる、というのがどこか妙に安心感を与える。


 サフィアは、まだ心の奥にくすぶるような緊張を抱えたまま、静かにベッドの上に腰を下ろした。 

 どこか落ち着かない気持ちで室内を見渡す。古びた建物とは思えないほど清潔で、整っている。荷解きを済ませ、ふと隣室の扉が開いていることに気づいた。


「……?」


 何となく引かれるように足を踏み入れると、そこは私室というより実験室だった。棚には奇妙な形のガラス器具や、文様の刻まれた金属球、無数の紙束や計算表。理屈では説明できない、でも何かを“観察”しようとした痕跡が散らばっている。

 その中でも、異質な存在がひとつ。

 部屋の奥に設置された黒鉄の装置。

 それはまるで、天球儀と歯車仕掛けの懐中時計を合体させたような形をしていた。中心にはクリスタルがはめ込まれており、今もわずかに光を湛えている。


「これ、なに……?」


 思わず、近づき手を伸ばそうとしたその瞬間。


「触るな」


 背後から低く響いた声に、サフィアはびくりと肩を震わせた。


「……ご、ごめんなさい。勝手に入ったわけじゃなくて」

「入るなとは言ってない。でも、それには触れるな」


 振り向くと、カイが無表情のまま立っていた。だが、わずかに声の奥に冷気が含まれているようで、サフィアは素直に手を引っ込める。


「わかったわ……でも、あれは」

「あれは、失敗作だ。触って怪我でもされたら困る」


 短くそう告げると、カイは背を向けた。


「夕食までに風呂でも入っておけ。風呂場は廊下の奥だ」


 それ以上、聞いても無駄だとサフィアは察した。

 不思議な形、刻まれた模様、あの石の鈍い光。そして、カイの声。

 まるで、見られたくない何かを開けそうになった時のような反応だった。

 それでも触れたかった。

 カイはそれきり、その機械に視線を戻すこともなく、さっさと棚に戻った。サフィアも無理に話題を掘り返さず、荷物の整理に戻る。部屋に流れる沈黙は、居心地の悪いものではなかった。

 

「こっちが水晶式の湯温調整。温め直すときは、これを軽くひねれば再加熱される」

「へえ、便利……って、これもあんたが作ったの?」

「ああ。市販品だと耐久性がゴミだからな。使うなら長く使えるものでいい」


 サフィアは思わず笑った。市販品を「ゴミ」と一蹴して自分で改良品を作る。


「じゃあ、壊したら怒る?」

「そりゃそうだ……けど、お前なら壊す前に気づく。多分な」

「なによそれ、褒めてるの?」

「さあ?」


 軽いやりとりに、ふっと空気が和らぐ。先ほどの緊張感は、どこか遠くへ押し流されていた。

 その夜、サフィアは初めての部屋で眠りについた。窓の外には、見慣れぬ星の配置。遠く、あの機械の静かな点滅が脳裏にちらついた。

いつもありがとうございます。

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