【10】緑の歌
「ここだね」
渡された地図を頼りに辿り着いたのは、中央通りから少し離れた、神域に近い森を背に、というよりは緑に飲み込まれそうなほど森の近くに佇んでいる二階建ての家だった。
一階が店舗、二階が居住スペースに仕える間取りになっているようで、部屋数も二人で使うには余るほどだった。
「思ったより大きい建物だね」
「客間まで取れそうなくらいです」
ローゼスが言うように、一階を食堂にして二階で宿泊できる業態にも小規模なら対応できそうなほどの広さだった。
「掃除が大変そう」
「使う場所だけ綺麗にするくらいのつもりでいましょうか」
「とか言ってるけど、どうせ家中掃除して回るんでしょ? 綺麗好きローゼスさんは」
「綺麗になるのは、良いことでしょう?」
図星を刺されても平然として笑っているローゼスにはいはいと返しつつ、メイベルは家の裏側にも回ってみた。
マルゴ商会長にお願いしていた通り、家の裏手には畑に出来そうな十分な広さの庭と、小さな井戸があった。
「いいね。まずは時間がかかりそうな畑の下準備からかな」
「では私は家の中を整えに行って参ります」
鍵を手にうきうきといった様子で掃除と荷物整理に向かうローゼスを「初日だしほどほどにね」と送り出した後、まずメイベルが向かったのは井戸だった。
覗き込んでみると、直上の空を背景に中を覗く自分の姿を映した水面が揺らいでいた。桶を落としてみるとすぐにばちゃんと水音がした。水の量は申し分なさそうだ。
試しに縄を引っ張って水を汲み上げてみる。桶の中の水は澄んでいて、嫌な臭いも無い。
しかし、ちゃぷ、と汲んだ水に指先を浸して感じた、違和感。
足元の土、そこに生えている草や、家の敷地の横にある森の木々も、おそらく同じ。それはシャルティアに至るまでの街道沿いでも感じていたこと。
(含まれた魔素が、ことごとく澱みを帯びてる)
ちらりと家の方を窺うと、二階の窓を開け放して埃を払っているローゼスが見えた。
「本当なら……」
小さく零れかけた言葉を、メイベルは飲み込む。
彼は自分を置いて一人でこの澱んだ魔素に侵された土地に来るつもりだったようだが、本来ならローゼスこそ、この国に近づけるべきではなかったのではないか。
見上げているメイベルの視線に気づいたのか、ローゼスが手を振ってくれる。
微笑んでそれに手を振り返し、メイベルはあらためて思う。
置いていかれるのも、置いていくのも、どちらもメイベルとローゼスにはできなかったから、こうして二人で一緒にシャルティアに来たのだ。
「だから私も、私にできることをしないとね」
利き手に着けていた魔力止めの腕輪を抜き取る。普段は意識していないが、魔法使いの素養があるメイベルはやはり少量の魔力を無意識に循環させていたようだ。腕輪で止まっていた魔力が急激に流れ出したことにより、一瞬くらりと酔うような症状が出た。思わず口元を押さえたが、数回深呼吸をしているうち次第にムカつきは治まった。
空間庫になっている肩提げ鞄の中に腕輪を仕舞い、代わりにローゼルムの精油の小瓶と小さな巾着袋を取り出した。
メイベルはゆっくりと歩きながら、右手でぽたりぽたりと精油を垂らし、左手では巾着袋から掴み出した種をパラパラと草地に蒔いて回った。
そうして家の周囲一帯をぐるっと円で囲むように歩き終えると、残った精油を掌の上に垂らしふぅっと息を吹きかけた。
途端、ローゼルムのさわやかな香りが辺りに拡がり、同時にメイベルの周囲と、精油を蒔いた辺りが淡く光り始める。
──巡れ、巡れ、大いなる流れを標として
さらにもうひと吹き。
ローゼルムの香りに誘われるように動き出した魔素の光──魔力はさらに拡がって、やがて歌いながらゆっくりと両手を広げていくメイベルを中心に、緩やかな流れを生み動き出した。
──征け、征け、大いなる流れに導かれて
魔素が動くと、魔力が生まれる。
停滞していた魔素が巡れば、澱みは晴れていく。
拡がった魔力がメイベルが描いた円の内側一杯に満ちると、ぽつり、ぽつりと、先ほど蒔いた種が芽を出し始める。
紫の茎に丸い緑の葉。ローゼルムの新芽だ。
巡る魔力が降り注ぎ、芽吹いた小さな緑の葉は見る見るうちに育って、次々に薄い薔薇色のつぼみを付けていく。
澱みが晴れた空間に、ふわり、またふわりと、小さな妖精が姿を現わし始める。
ローゼルムの若葉に口づける大地の小妖精。
薔薇色の花弁の上に露を乗せて遊ぶ水の小妖精。
そしてメイベルの茶色の髪を悪戯するように舞うのは風の小妖精。
それはまるで、原初の混沌とした世界に眷属とともに妖精王が降り立ったという、神話の再現のような光景だった。
──目を覚ませ、目を覚ませ
──水を飲み、土を食み、光と風でその身を洗え
──緑の季節来たれり
魔力の光の粒がすべて消える頃には、家の周りをぐるりと円く囲むローゼルムの花畑が出来上がっていた。
ローゼルムの花の香りと一緒に、メイベルは深呼吸して家の周りに溜まっていた魔素の澱みが晴れたのを確かめる。
(これならきっと、ローゼスにとっても少しはいい環境になったはず)
戯れて遊んでいた小妖精達が笑って姿を隠していくのを微笑んで見送る。
(魔法を使って疲れたから、今日のところは妖精たちにいろいろ尋ねてみるのはやめておこう)
ほぅ、と息を漏らし、メイベルが先ほど汲み上げた井戸の水で手についた精油を洗い流していた時だった。
「おい、お前!」
突然かけられた乱暴な声にメイベルが顔を上げると、家の表側から革の鎧を着た男がこちらに歩いてくるのが見えた。




