#10 在る/純白
この作品はフィクションです。
実在の人物、事件、地名などとは一切関係ありません。
ふと、空を見上げた。
厚い雪雲に覆われた空は、灰とも紫とも知れぬ不気味な色に染まっている。
その中に、小さな裂け目ができていた。
まるでラグビーボールのような楕円形をしたその裂け目は丁度月と重なっていて、空にぽつりと瞳が浮かんでいるように見える。
「……………………」
その視線を避けるように、森の中へと駆け込んだ。
けれど葉の枯れ落ちた木々は身を隠すには頼り無く、どこまで行っても空の視線から逃れることはできそうにない。
「……………………」
面倒になって、立ち止まった。
空がこちらを睨むなら、こちらからも一度睨み返してやろう――そんな風に考えて、近場にあった大岩の上へ跳ねるように駆け上がる。
そうして、ぎろりと空を見上げた。
瞳はやはり、こちらをじっと見つめている。
それに苛立ちを込めて、じっと睨め付けながら叫んだ。
――――オォ、ン…………
叫んでから、後悔する。
……我ながら、何をやっているのやら。
空など睨んだところで無意味だ。そもそもあれは瞳ではなく、雲の切れ間に重なった月が偶然それとよく似た形を取っただけ――要は、ただの錯覚に過ぎない。そんなものにいちいち反抗するなんて、愚かしいにも程がある。
全く以て、馬鹿馬鹿しいことをした。自嘲しながら、立っていた岩を駆け降りる。その最中、不意に遠くから少し懐かしい匂いを感じた。
それは雪のようでいて、けれど決して雪ではない。氷のような冷たい香りの奥底に、花のような甘く優しい香りを秘めた冬と春の狭間の匂い。
「……………………」
誘われるように、駆け出した。
何の匂いかは分からない。もう、思い出すことはできない。
思い出すべき記憶は、過去は、とうの昔に失くしてしまった。
それならばこの懐かしさは、果たして何処から来るのだろう。この寂しくも暖かい心地良さの根源は、果たして何処に在るのだろう――漫然と少し考えてみたが、結局答えは出なかった。
まぁ、どうでもいいか。そんな風に切り捨てて、森の中を直走る。
途中、再び上へと視線を向けた。
やはり、空が自分を見下ろしている。
但し今度は嘲るような、蔑むような、歪に歪んだ眼差しで。
◇
遠くで、風の音が響いた。
降り頻る雪は強烈な風に吹き流され、視界を白で埋め尽くす。その白は闇より余程完璧に、世界の大半を隠蔽した。
けれどそれの存在感は、その程度では見失いようのないものだ。
雪のような、白い巨躯。爛々と光る眼光にはしかし生気が感じられず、どちらかと言えばロボットのカメラが宿すそれに近い。荒い吐息には獣特有の臭さがなく、それが更に眼前に立つ存在の生物らしくなさを強調していた。
異様。その一言に尽きる。
怪物。この世に在るべきではないもの。在ること自体が不自然なもの。生きていてはならないもの。これは恐らく、そういうものだ。
「……………………」
ふと、気付いた。
ああ――なんだ。
「……同じじゃないか、俺達と」
死人。この世に在るべきではないもの。在ること自体が不自然なもの。生きていてはならないもの。羅列すれば、ほとんど同じだ。
雪霊。獣。違うようで、その本質は変わらない。
――――どちらもが、この世界にとっての異物だ。
「なら、そうだな」
呟きながら、眼前の獣に銃口を向けて。
「異物同士、心中するか」
迷うことなく、引き金を引いた。
その感触は恐ろしい程軽く、容易い。
あまりにも軽々しく、そして易々と、小さな氷塊は発射される。
「この行為に、大した意味など存在しない」。その軽さはまるで、自分のそんな歪んだ思想を反映しているかのようだった。
「……………………」
……そうして、軽率かつ安易に放たれた弾丸は。
「Ga…………a?」
呆気なく、そしてあっさりと――獣の眉間に、直撃した。
◇
……外が、酷く吹雪き始めた。
吹き荒ぶ風の音は強烈で、獣の雄叫びのようにも思える。
「……獣、か」
ふと、友人の顔を思い出した。
獣――彼女が言うそれは、こんな鳴き声をしているのだろうか。人から生を奪い取り、挙句死すらも奪い取る怪物じみた獣とやらは。
直接目撃したことはない。しかし、聞いた情報を総合した時浮かんでくるのはこういう鳴き声の化け物だ。
そんなものが、この世界に実在する。信じ難いが、信じていない訳ではない。少なくとも、信じて良いだけの証拠は既に提示されている。
……十年前、彼女に真実を告げられた時。それは目の前で実演された。
あの日のことは、今も鮮明に覚えている。と言うか、忘れようがない。
全く、あの時は本当に酷く驚かされたものだ。何せ普段は冗談どころか口を開くことすらも珍しいような友人が、いきなり頓珍漢なことを言い出した上に前触れもなく自分の指を圧し折って見せて来たのだから。
しかしそれよりも驚いたのは、圧し折ったその指が突然雪に変わったこと――それから指を圧し折った後、彼女に残った傷痕だ。
血の通わない、真白な断面。あれを見た瞬間、悟った。
……私の友人、氷室月葉はもう居ない。
彼女という人間はもう、ただの張りぼてに過ぎないのだと。
「……白斗も、そうなのかね」
柊白斗。私の従弟――いや、弟。あいつは、月葉と同じになった。
ならばあいつの断面も、彼女のように真白いのか。彼女と同じ、表面に「柊白斗」を貼り付けただけの雪の塊に過ぎないのか。
私の、大切な弟は――もう、この世界に居ないのか。
「……それは、嫌だな」
自然と、そんな言葉が漏れた。
先生が消えて、友達が死んで、どん底に居た私の心は幼い白斗に救われた。あいつが居たから、今も私は生きていられる。
私よりもずっと不幸な、あいつの存在があったから――私はまだ、壊れることなくこうして普通にしていられるのだ。
もしも、そんなあいつが居なくなったら――私は、どうなってしまうのだろう?そんな思考が脳裏によぎり、背筋にぞくりと寒気が走った。
……全く、愚かな話である。それが空想や未来ではなく、目の前にある現実だと分かっていた筈だったのに。
手遅れになったその後で、失うことが恐ろしい――なんて。
「……本当、馬鹿な話だよな」
あの時。格好を付けて、強がったことを言ったけど。
本音ではあいつに縋り付いてでも、こんな風に願いたかった。
「頼むから、死なないでくれ――例え、何を殺してでも」
その時は。
私も一緒に、殺すから。
また、獣が鳴く。先刻よりも、大きな声で。
吹雪く空を見上げながら、私は黙ってその咆哮を聞き続けた。
◇
吹雪の中、その光景は何故か矢鱈と鮮明に見えた。
「――――――――」
何かを呟くのと同時に、弾丸を放つ彼の姿。それが雪も風も貫き、真っ直ぐに飛んで行く軌道――そして、着弾する瞬間。その一連の流れ全てが、サーモカメラの映像みたいに浮かび上がって見えていた。
故に、気付いてしまう。
「…………Gaaaaaaaaaaaッ!!」
効いていない。
ある意味、当然と言えば当然か。羆の頭蓋骨はライフルの弾すら弾くと言われる程に頑丈で、猟師も羆を撃つ時には決して頭を狙わない。
それを更に超越したあの怪物の頭蓋骨は、恐らく霜之宮の雪形でさえ容易く弾き返すだろう――そんなものに拳銃など、通用する訳がない。
通用しない、が。
気を逸らすには、十分過ぎる一撃だ。
(今なら――殺れる)
勝負は一瞬。
今、獣の意識は私にない。崩れた姿勢も、既に修正を終えている。
足元、問題無し。集中、完璧。殺意、準備完了。
刹那で全ての確認を終え、そして。
「ふっ――――!!」
力強く、雪を蹴った。
蹴り上げられた身体はふわりと宙に浮き、半回転するようにしながら獣の方へと向かって行く。
「Guッ!?」
獣も漸く気付いたようだが、もう遅い。
ぞん、と獣の喉元に殺意の刃が突き立てられる。そしてそれは、回転の勢いをそのまま乗せて――
「……さようなら、白銀君」
――――その喉笛を、引き裂いた。
◇
「……Ga……Bo……」
溺れたような断末魔を上げ、血の泡を吹いて獣は斃れる。
その巨大な亡骸が雪に溶けて行く様を呆然と眺めていたところ、月葉が歩み寄って来た。
「……一応、ありがとうと言っておくわ」
「……別に」
「にしても、どういう心境の変化?あの時は興味なさそうにしてたくせに、いきなり「死にに来た」だなんて……何かあったの?」
「……あー……」
何かは……あった、確かに。
氷吹孤織。あの奇妙な女との出会いが、自分の思考に大きな影響を与えたことは否定しようのない事実だ。
ただ、何故だろう。何となく、それを口にしたくない。
別に、大層な理由ではないのだ。はっきり言葉にしてしまうなら、それは「気に食わないから」だとしか言い表しようがない。
何と言うか、そう。
「お陰」だとか「所為」だとか、あの女が何かの理由付けになったことを認めるのがどうも癪なのだ――我ながら、何とも子供臭い理由である。
「……?何、どうかした?」
「いや、何でもない」
とにかく、この件については適当に誤魔化してしまうことにしよう。そう思って口を開こうとした、次の瞬間。
「…………?」
すぅ、と――微かな寒気が、耳の側を駆け抜けた。
「ッ…………!?」
直後、月葉が臨戦体勢をとる。
寒気。雪霊という存在にとって、その感覚が意味するのは。
「ルル……ゥゥ」
戦いの、幕開けである。
「……………………」
思わず、絶句した。
白い、犬――いや、恐らくは狼だろうか。身体の大きさはともかく、姿形の要素で言えばそれに近しい見た目をしている。汚れのないその白毛は吹雪の中で淡い輝きを放ち、その美しさと神々しさには最早恐怖すら覚えた。
しかしそれよりも異様なのは、この狼の双眸だ。
然程多くの例がある訳ではないが、今まで自分が見て来た限り「獣」と呼ばれる怪物達には一つの共通点がある。
瞳に、生気がない。
これまで出会った獣は総じて、機械的に爛々と光る生気のない瞳をしていた。が、目の前に居るこの獣はそれに合致していない。
生気がない点は同じだ。
しかし、その琥珀色をした双眸には僅かな光すらもない。機械的な光さえ一切宿さないそれは、まさしく「死んだ目」と形容すべきものだろう。
伽藍洞で、虚無な瞳。その異様な存在感は、この獣が今まで出会ったどの獣とも一線を画する存在であると俺に強く確信させた。
「……………………」
ちら、と思わず月葉を見て、俺は再び絶句する。
横目に見た彼女の顔は、これまで一度も見たことのないものだった。
爛々と光るその瞳は、けれど獣のそれとは違う。ずっと狙っていた獲物を漸く見つけたかのような、飢えた獅子の如き瞳だ。
殺意に満ちた表情は、とても氷室月葉という少女のものとは思えない。いつも微妙な表情で、複雑そうに短剣を振るう優しい少女の姿とは。
「……『ジェヴォーダン』」
そう、小さな声で呟いて――月葉は獣に向かって駆け出す。
その瞬間には、既に勝負がついていた。
「……………………は?」
ぽぐ、と小さな音が響く。俺の、真隣で。
その光景を、横目に見ていた――否、見えなかった。
月葉が走り出そうとして、直後に彼女の上半身が消し飛んだことは分かっている。それから少し遅れて、音が着いて来たことも。
しかし、何も見えなかった。一体何をして、何が起こって、そんな結果が訪れたのか、一寸たりとも分からなかった。
さら、と月葉の下半身が崩れ、ただの雪に戻っていく。そうなるまでに経った時間は、果たしてどれ程だったのだろうか。
それを理解するよりも。
暗転の方が、圧倒的に早かった。
◇
……季節は巡る。
死から命は芽吹き、芽吹いた命は育まれ、やがて再び死へと還る。
そして。
また、冬が訪れる――――。
皆様どうも、作者の紅月です。
これにて、本作の第一部は完結となります。如何でしょう、お楽しみいただけましたか?
今冬の戦いは終わりましたが、二人の物語はまだまだこれからも続いていきます。二人がどのような結末を迎えるのか、今後も引き続きお楽しみください。
さて、それに関しまして私から一つご報告をば。
誠に申し訳ないのですが、本作を暫くの間休載しようと思っております。
理由といたしましては、単純に投稿ペースが遅すぎたことと行き当たりばったり感に対する反省ですね。
毎月書いて、毎月出す。この流れでやって来ましたが、どうにも行き当たりばったり感が強いなと。
なので第二部以降はストックを作り、話の流れを完全に定めた上での投稿にしようと思っています。
それに伴い投稿ペースも最低週一、行けそうなら毎日を目指そうと思います。
本作の休載中も別の作品を投稿する可能性はありますので、機会があればそちらの方もご一読いただけると幸いです。
一応、連載再開は本年十二月一日を予定してます。再び冬が訪れる日をお楽しみに。
以上、長文失礼いたしました。ではではー。




