黒き狭間の騎士(3)
掴んだ腕はしっかりとしたものだったが、それでも年相応に細かった。
「放して! 誰か! 助けて‼」
叫ぶ内容は今までの人間と変わらない。皆、命乞いをしてきた。金をやるから助けろ、自分に逆らうというのか、そういう権力や財力を笠に着た叫びでなく、純粋に助けを乞う声なのが悲しい。
「助けて! セレスさん!」
諦めろ。諦めてくれ。英雄は来ない。助けは……助けてくれるような優しい人間はここにはいないのだ。
ここにいるのは、人を守り、人のために尽くす騎士ではない。
ここにいるのは、王を守り、人を殺す御者なのだ。
彼女が今までの対象者と違っていたのは、泣き喚かないことだった。悲鳴を上げ、助けを願うものの、彼女は泣かない。
それは強さなのか。意地なのか。つつけばすぐにでも泣きそうな少女なのに、彼女は涙をこぼさない。
そんな彼女を馬車に乗せ、私は御者の外套を羽織った。もう、後戻りはできない。御者は、振り返ってはいけない。躊躇っては……いけないのだ。
なのに。
重くモヤモヤしたものが胸の底に渦を巻く。そこに目を向けてはいけないのだと理解しているのに、それは自己主張をやめない。
見てはいけない。振り返ってはいけない。振り返って、馬車の中にあのまっすぐな瞳を見つけたら、私は停まってしまう。
「……私は、御者だ」
私は自分に言い聞かせるように、そうひとりごちた。
私は御者だ。黒き馬車を駆る、御者なのだ。今は、それ以外の何者でもない。
行く手は闇。手元にあるランプは地面を照らすものの、行く先までは照らさない。黒の馬車に相応しい昏さだ。
昏くあれ。なにも見えないほどに。そう願うものの、馬車を走らせ続けるとどうしても夜は明けていく。
これではダメだ、暗いうちに済ませないと。太陽の下では、私は御者ではいられない。
そう思い、私は手綱を強く引いた。
◆
「もう、ダメなんですか?」
地面に手を突いた少女は、ぽつりとそう呟くと、そのまっすぐな瞳を私の方へ向けた。
その瞳には、なんの感情も浮かんではいなかった。恨みも、憤りも、蔑みも、悲しみも、なにもない。
ただ、これから起きることを確認するだけの、暁の空のような静かな瞳だった。
「王命だ。アストルガ家は王から下されるどんな命令も受ける。それが、たとえ恩人の始末であっても」
自戒のように告げた言葉は、けれども自分を律する言葉とはなりえなかった。
静かな瞳が私を映す。そのまなざしに、現実を突き付けられるような気分になった私は、かすかに視線を地面へと落とした。
黒き外套の下から覗く、騎士団の隊服。御者と、騎士。私はどちらであるべきなのか。
迷いを断ち切りたくて、剣を手にする。振りかぶっても、静かな瞳は揺るがない。ただ静かに、まっすぐに、私の動向を……己の未来を見つめている。
それは、泣き喚かれるより堪えた。
──彼女が、なにをした。
非凡な力を持った、平凡な少女。
その非凡な力を失ったなら、彼女に突出したところはないではないか。
殺す理由など、ない。王都で英雄に関わって生きなければ、彼女は王に不都合な存在とはなりえない。“竜殺しの英雄”とさえ引き離してしまえば、彼女はなんの問題も生まないのだ。
「……ルチア・アルカ。貴殿の名と、髪をいただこう」
気が付いたら、私はそう口走っていた。




