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王太子殿下のご婚約(4)

「エレナ!」


 学院寮に戻ったわたしを待っていたのは、噂の人物だった。艶やかな黒髪を乱し、白皙の頬を紅潮させて、王妃様によく似た黒曜石の双眸でわたしを睨みつける。普段は国王陛下によく似たこのお方は、目元だけはすごく王妃様によく似ているのだ。特に、怒ったりしているときには。

 ……なにか、怒らせることをしただろうか。う~ん、思い当たる節がない……。


「リカルド殿下、どうなされたのです?」


 じっとわたしの様子を伺うようにこちらを見続ける瞳が怖くて、わたしは笑ってごまかした。蛇に睨まれた蛙の気持ちというのだろうか、すごくドキドキする。

 なにもしてない……わたし、なにもしてないよね!?


「エレナ……その、今日は」

「あ」


 もしかして!

 以前、リカルド殿下は「エリクに勝ったらお願い事をひとつ聞いてほしい」といおっしゃっていた。もしかして、大魔法使いエリク様に勝てたのだろうか。ああ、でもエリク様はものすごくお強い。幼い頃からエリク様に師事しているうちの弟がいうのだから間違いない。

 でも、リカルド殿下は努力家だ。なんでもさらりとこなす風を装っているけれど、いつだって鍛錬を欠かさず行っていると、わたしはその鍛錬に付き合わされている弟から聞いている。

 だから、わたしは尋ねてみることにした。


「もしかして、エリク様に……勝てたのですか?」

「そうだ!」


 わたしの想像は当たっていたらしい。途端に黒い相貌に誇らしげな光が宿る。


「遅くなってすまない。だが、ようやく勝てたのだ。だから、今日は来た。エレナに、言いたくて……」

「まあ!」


 嬉しくなって思わず胸の前で組んでしまった手に、そっとリカルド殿下が両手を重ねる。


「すごく頑張られたのですね!」

「もちろん! だってエレナが……エレナを……俺」


 感極まったのだろう。殿下はさらに顔を赤らめた。相当大変だったんだろうな。

 わたしは目の前の少年を労わりたくて、そのサラサラの髪に手を伸ばした。いつの間に、こんなに大きくなったんだろう。男の子は、いつの間にか背が伸びているなぁ。


「お疲れ様でした。お怪我はありませんでした?」

「怪我はない。胸が痛かったけれど……本物のエレナを想えばあんなもの! いや、あんなものなんて言っちゃいけないな。あれは素晴らしい出来だった。細部まで写していて、今にも──」

「?」


 一体どんな勝負をしたのだろう。エリク様がなにかを作り出してそれと戦ったような口ぶりだけれど。胸が痛いと口にしつつも、怪我はないとおっしゃるのだから、結局問題はなかったのだろうか。

 首を傾げるわたしに、リカルド殿下はひとつ咳ばらいをすると、なにか覚悟を決めたような表情になった。つられてわたしの背筋も伸びる。


「今日は、エレナに求婚しに来た!」


 王妃様と同じ色の瞳を輝かせて、幼馴染の少年は言う。

 きゅうこん。きゅうこん……って、なんだっけ。知っているけれど頭が認知するのを拒否している。聞き間違いかしら。うん、きっとそうに違いない。


「エレナに求婚をしに来たんだ!」


 瞬きすることも忘れて立ちすくんでいるわたしに、リカルド殿下は言葉を重ねた。

 求婚。どうやら──聞き間違いでは、なかったらしい。


「求婚……?」


 結婚の申し込み。殿下が、誰かに。ああ、そういえば婚約の噂が。あれは本当だったということか。

 うん? でも、今殿下はわたしに求婚しに来たって言わなかった? てことは、結婚するのは、わたし?


「え? わたしが結婚するの? 殿下の婚約の話でなく?」


 混乱したわたしの意味不明な発言に、目の前のリカルド殿下ががくりとうなだれた。


「ホントに伝わってなかった……!」


 悄然しょうぜんとした様子で呟く幼馴染の姿に、思わず手を差し伸べると、がしりと両手でつかまれた。俯いていた顔があげられ、黒曜石の双眸が真剣な光を宿してわたしを射抜く。


「俺の結婚でもあり、エレナの結婚でもある。俺は、君と結婚したいんだ!」


 言われた意味を理解しかねて、わたしは息を呑んだ。

 そんなわたしを、リカルド殿下は黙って見つめている。まるで知らない相手のような気がして、胸がどきりとした。

 いつの間に、こんなに背が伸びたんだろう。いつの間に、声変わりしたんだろう。

 手紙だけではわからない。わたしが知っていた掌は、こんなに硬くて大きなものではなかったのに!


「むっ、無理です!」


 わたしの悲鳴に、彼も悲鳴を上げる。


「何故だ! 俺が嫌いなのか!?」

「嫌いじゃないです! むしろ好きです! でも王太子妃なんて無理です!」

「好きなら問題ない!」


 うっかり吐露してしまったわたしを逃がさないとばかりに、両手を捕らえてリカルド殿下は畳みかけた。


「リカルド・ルチアーノ・バンフィールドは、マリア=エレナ・クレメンティだけを望む! 俺の望みを叶えてくれるって言うならば、生涯側にいてほしい!」 

「えっ、その……」

「誰からも守る! 大切にする! 一生のお願いだ!」

「まだ、殿下はお若いですし、今決めなくても……」

「年齢は関係ない! 待って君の気持ちが俺に傾くなら、結婚は待つ! でも、婚約だけは譲れない。今年、君が社交界にデビューしてから、君狙いの人間がどれだけいると思ってるんだ。俺はその話を聞いてから、もういてもたってもいられなくて……!」


 そんな話は聞いたことなどない。多分、多大に誇張された噂だろう。事実、わたしのもとへ持ち込まれた縁談など皆無なのだから。


「お願いだ!」


 王太子が軽々しく頭など下げるものではない。そう言うつもりだったわたしの口は、全然違う一言を彼に告げた。


「こ、婚約だけなら……」


 うっかり口走ったその一言は、目の前の少年の真剣な顔を、満面の笑みに変えた。


 その後どうなったか。

 まぁ、押しに弱いわたしの行く末は、察してほしい。

 ただ、この件において、国王陛下は「リカルドは僕に似たのかな」と感慨深げにし、王妃様は「行動力はあたし譲りよ!」と胸を張り、父は「せめて殿下が二十歳になるまで……!」と愚痴り、母は「幸せにね」と笑ったことを、ここに付記する。

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