黒き狭間の騎士(4)
「え……?」
「この場で“ルチア・アルカ”は死ぬ。その未来は変えられない。王命は絶対だ。だが、貴殿が“ルチア・アルカ”でなければ、問題ない」
詭弁だ。そう思いつつも言葉は止まらない。
「貴殿はルチアではない。普通の、どこにでもいる少女だ」
「わたしは……」
「ルチアは死んだ。いいな?」
応えが返るのを待たず、私は少女の髪を掴む。淡いピンクのリボンでまとめられた栗色の髪に刃を当てると、ふぁさりと短くなった髪が広がり、彼女の眼差しを隠した。
「ルチア・アルカは死んだ。だが、貴殿は生きよ。王や英雄とは無関係の場所で……生きてくれ」
生きてほしい。生きていてほしい。心からそう願って、私は少女に告げた。名や愛する人を失って生き続けるのは酷かもしれない。だが、彼女はまだ若いのだ。
これは単なる自己満足だし、酷いエゴだとも思う。様々なものを奪われたまま生きろと突き放されるのは、もしかしたら殺されるよりつらいかもしれない。
でも、どうしても私は彼女に生きていてほしかった。王都を、世界を救ってくれた彼女に返せるものが、彼女の命だけというのはとてつもなく恥ずかしいことだったが、今の私が渡せるものはそれだけだったのだ。
「せめて……三年。耐えてくれ。今しばらくは堪えてほしい」
王は病に侵されている。あの様子では、もう……あと何年も持たぬだろう。次代の王は彼女のことをよく知っている人間だ。王太子が戴冠すれば、彼女に名を戻してやることも可能だろう。
だが、それまでは彼女の存在を隠さねばならない。王都から引き離し、私からも切り離してどこか安全なところへ匿う必要がある。生きていると知られたら最後だ。
「私は王都に戻らねばならない。だが、貴殿をこのままにしてはいけない」
対象者を殺せなかった。王命に背いた。“黒の御者”としては失格だ。私は、もう、御者としても騎士としても生きられないだろう。
領地と爵位と職を返して辺境の地へ行こうかと、一瞬考えた。御者として手に入れた特権も、騎士として手に入れた地位も、今の私には持つ権利がない。
だが、領地を返納してしまえば、彼女を匿う場所がなくなってしまう。そう思うと、覚悟が決められなかった。どうする?
英雄は救世の報奨として彼女との婚姻だけを望んだと聞く。あの男は生真面目な上に優秀だ。彼女の死に私が関わっていることは、私の本業を見抜いていた節がある団長が確実に漏らすだろう。そうなれば探索の手は我が領地に及ぶだろう。クレメンティたちが動けば王の目に留まる。それは間違いなかった。
「貴殿を……どこに隠すか」
「わたしが」
思考を巡らしていると、名と過去と愛するものを奪われた少女が、小さな声で話し出した。
「わたしが生きていると、セレスさんたちに迷惑がかかるんですよね」
突き付けられた未来を懸命に飲み込もうとするように、少女は言葉を紡ぐ。
「それならば、できるだけ遠くへ。でも、その代わりにマリアさんは守ってください。お願い、マリアさんは傷つけないで。彼女は、わたしたちの世界のためにたくさん傷ついて、頑張ってきてくれたんです。もう、これ以上奪わないで」
お願いします、と彼女は頭を下げた。小さな肩は頼りなげだったが、震えてはいなかった。どこまでも気丈なその性質は、彼女の生い立ちが育んだものだろうか。まだ、こんなにも子どもだというのに。
「貴殿には、本当にすまないことをした。聖女マリアの安全については全力を尽くす」
彼女の必死の願いへ、すんなり受諾の言葉を返せない自分が情けなかった。
◆
王の不信感を煽らぬためにも、私は早々にアールタッド城に戻る必要があった。そうなると、彼女をそう遠くへは連れてはいけない。一旦どこかへ隠れてもらってから、転々と身柄を移すしかないだろう。
そう思って再び馬車を走らせたのだが、運命は彼女を哀れんだようだった。
「……あれは」
無言で馬に鞭をくれていた私は、前方から馬を駆ってやってくる男の姿に目を留めた。その男が身に着けているのはどう見ても騎士団の隊服だ。
それは賭けだった。彼から少女の生存が王に知られる可能性もある。だが、言い逃れる方法もあると踏んだ私は、その騎士を呼び止めることにした。私がここから戻る間に彼に距離を稼いでもらえば、彼女の痕跡を追うことは難しくなるのではないか。もし彼が彼女に恩を受けた人間ならば、彼女を託す。そうでなければ、挨拶をして別れる。そう心に決めて、私はその男に声をかけた。




