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十三

「徹ーわりい数学貸してー」


 ガラッと遠慮なしに開けられた教室のドアから健介が覗き込んでいる。


「また忘れたのかよー」

「貸すな、徹、癖になる」


ちゃかしているクラスメイトに笑顔を向けて徹は数学の教科書を持って立ち上がった。


「サンキュ。っつっか、高校決めた?」

「んー多分東かな」

「そっか、あそこ陸上も強いしな」


うん、と徹は頷く。健介が野球の強豪である私立高校に進むか、進学を考えて東高校にするか、と言うようなことをひとしきり話しているとチャイムが鳴った。


「ま、受験生だけど部活も終ったし、この夏はあっそぼーぜー!!」


と節をつけて大声で言う健介の後ろには先生がやってきていて、出席簿でパン!と頭を叩かれる。


「早く戻れ」

「すんません!」


 走り去る健介にクラスが爆笑している中を徹は席に戻った。


 徹は中学三年生になっていた。


 あれから一度もダムには行っていない。部活が終わってからは時間があったのだが、ピーちゃんを見にも行っていなかった。


 真人は1年生の秋に転校して行った。中学ではクラスも分かれたので廊下ですれ違うだけだったが、引越すまえに徹を訪ねてきた真人は「借りっぱなしだった」といって一冊の古い本を差し出し「じゃあ元気でな」と帰って行った。

 両親の離婚で母親の実家に行ったのだ、ということをしばらくしてから聞いた。


 栞はあんなに夢中だったソフトボールを一年経たずにやめてしまった。ただの心境の変化なのか、何があったのかはわからない。先日、はじめて彼氏を連れてきた時の隆の動揺ぶりは今でも家族の笑い話になっている。



 その日の夜に隆が、そういえば、と切り出した。


「アナザーさんが亡くなったらしいな」

「え? 」

「お客さんが話してるのを聞いたんだ。ちょっと前から行方不明で消防で探していたんだが今日ダムで見つかったらしい」


 幸恵が茶碗を洗う水を止めて不安そうに振り返った。


「自殺じゃないかってことだったけど」

「事故じゃないかしら? ちょっとおかしくなってるんじゃないかって聞いたことあるわ」


 手を拭きながら椅子に座って幸恵は続ける。


「同じ時間にスーパーに来てウロウロして何も買わずに帰るんですって。毎日」


 ガタン! と徹が椅子から立ち上がる。


「ピーちゃんを見てこないといけないねえ」


 キヨが穏やかにいうと、ああ、と気がついたように「そうだったな」と言いながら隆は立ち上がった。


「徹、一緒に来るか? 」

「うん」

「あたしも行く」


 栞は既に立ち上がり、タンクトップの上にパーカーを着込んでいる。


 車で夜の町を走る間、誰も口を聞かなかった。アナザーさんの家に着くと明かりはついておらず、人の気配もしなかった。幸恵の実家まで戻って懐中電灯を取ってくる。


 小屋の中でピーちゃんはうずくまるようにして死んでいた。


「徹、埋めてあげよう」


 栞は言うと小屋の戸を開ける。徹がそっと抱え上げるとピーちゃんは驚くほど軽かった。

 幸恵の実家に戻り、スコップで穴を掘る。栞はクスンクスンとすすり上げていた。


 そっと土をかけ、石をのせて線香を焚く。徹は家に帰る間も家についてからもずっと黙っていた。



 翌日、徹は家の前に立っていた。時計を見る。


「七時五八分」


 つぶやくと走り出す。景色は飛ぶように流れていった。

 町を抜け、農道を抜け、山道を登り、下り、登る。一度もとまらずにダムに着く。


 黄色と黒の紐は何も変わらずそこにあった。しかし、申し訳程度についていた柵の一部か壊れ、地面には何かを引きずったように草がない。

 紐を跨ごうとした徹の耳にだけ声が響く。


「くんな」


 徹は動きを止めて立ち尽くした。

 何かを言いかけた徹の顔が歪む。押し寄せる感情をぐっとこらえると徹は深くお辞儀をして手を合わせた。長く長く手を合わせた。

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