君を愛することはないと言われたので、美容に勤しむ話
初投稿です。ふんわり設定です。
※7/29追記 10000PV越えありがとうございます。
短編の日間ランキング28位まで入りました。
皆さんのお陰です。
※8/1追記 お陰様で日間ランキング10位までいけました。ありがとうございます。
結婚初夜、流行りのロマンス小説よろしく、グレースは夫となったパトリックに「君を愛することはない」と言い放たれたわけである。
申し訳なさそうにするわけでもなく、したり顔でその言葉を言い放つ男は、金髪碧眼で古今東西憧れる容姿の要素があり、それなりに顔が整っていた分、グレースは腹立たしさを覚えた。
この男は何を言っているのか。
そもそもグレースとパトリックは社交界シーズンで出会ったような恋愛結婚ではなかった。言うなれば完全なる政略結婚であり、婚約中もほとんど顔を合わせることはなかった。
ろくに会ったことのない男に恋情を抱くことは難しく、グレースは結婚に愛を期待していなかった。
ただ、グレースの両親のように、政略とはいえ、やがてはお互いに家族愛でも育んでいければとは思ってはいた。
だが、結婚初夜にこのふざけた台詞である。
自分に陶酔するな、とグレースは思った。
言いたいことは色々あったが、グレースは「そうですか」と一言だけ言って、早々と与えられた自室に下がったのであった。
ドアを閉じる瞬間、呆気に取られた間抜けな男の顔を見た。
グレースはエドモンストン男爵の長女だった。エドモンストン一族は、かなり古い時代に同じ大陸にある王国を支配した王の子孫と云われているが、グレースの家はどこにでもある男爵家である。もっとも、グレースの父親は海軍提督を務めており、落ちぶれてもいない家柄ではあるものの、爵位は男爵である。
グレースは人からは“オナラブル・グレース・エドモンストン”と呼ばれるように、公爵や侯爵、伯爵家の令嬢たちよりも一段低い扱いでこれまで呼ばれてきた。
一方、パトリックはハワード伯爵家の生まれで、既に爵位を受け継いでいる。
パトリックと結婚することで、グレースは“レディ・グレース・エドモンストン・ハワード”と呼ばれることになる。
そもそもハワード伯爵家とエドモンストン男爵家の婚約の起こりは、同じ海軍の派閥にあったことに始まる。
パトリックの父親である先代伯爵は海軍元提督であり、グレースの父親のエドモンストン男爵は後輩に当たった。
先代伯爵はパトリックが幼いうちに病となり、死の間際にエドモンストン男爵にパトリックの後ろ盾を頼んだ。
パトリックとグレースの婚約は幼いうちに内定され、決して破ることはできなった。
初夜失敗の翌朝、パトリックとグレースは黙々と朝食を食べていたが、徐にパトリックが口を開く。
「昨日の話の続きだが、私には愛する人がいる」
「そうですか」と興味なさそうにグレースが返答すると、パトリックは一瞬たじろぐも、負けじと続ける。
「ゴールウェイ準男爵の娘のフローラだ。彼女を愛しているから、君を愛することはないし、期待はしないでくれ」
では、そのフローラ嬢と結婚すれば良かったでしょう、と言ったところで意味はないだろう。
朝食の間に控えるメイドたちはクスクスと忍び笑いをしていた。
グレースは、使用人にこけにされて怒りを覚えたが、なんとか感情を抑えようと努力した。
「わかりました。どうぞ、ミス・フローラ・ゴールウェイと仲良くなさってください」
「そのつもりだ。だから君は邪魔しないでくれ。全く、君の父親が引退したら、君と離婚したいものだよ」
パトリックは政略の被害者のつもりなのだった。
グレースはそれから、あるメイドから嘲りを受けながら、あるメイドからは憐れまれながら、日々美容に勤しんだ。
十九時以降は食事をしないことを徹底し、日々運動に取り組んだ。
同じ大陸のウエスト50cmだという王妃が実践している美容法は積極的に取り入れた。
髪の毛も乾燥しないように美容液を振りかけた。おかげで黒々とした髪は非常に艶やかだった。
そもそもグレースは深く青い瞳が特徴的な瞠目の美女ではあった。それをさらに磨きをかけているのだ。
夫のパトリックは、始めは嘲笑っていたが、だんだんと大人しくなった。
ただ、相変わらず、夫婦2人で揃って夜会に出席しても、すぐさまフローラと共にダンスをし、公然とグレースを無視した。
いつもフローラはパトリックの腕の中で純真そうな笑みを浮かべていた。ある時、グレースがフローラに視線をやると、それに気づいたフローラは、馬鹿にしたように笑った。
社交界では、パトリックとフローラ、グレースの三角関係は有名となり、グレースは憐憫と嘲笑を以て人々に迎えられるのだった。
今日も今日とて、グレースは、そばかすが可愛らしいメイドのメアリーと一緒にイチゴを潰していた。これをオイルと混ぜれば、いい化粧水となる。
「奥様、いい仔牛の肉が手に入ったそうですよ」
メアリーが言うと、グレースはありがとう、と言う。
「仔牛の肉をどうするのですか?」
「夜寝る時、パックにするのよ。ベトつかないし、いい脂だから。どうせ、夜は1人で寝るから、奇怪でもなんでも構やしないわよ」
「……奥様は、いつも努力されているのに、旦那様ときたら……」
「いいのよ、どうでもいいわ。こうやってメアリーと一緒におしゃべりする自由な時間があるんだもの。充分な生活よ」
メアリーはグレースの言葉を聞き、恥ずかしそうに喜んだ。
イチゴを潰し終えると、グレースはマッサージを受ける。ローズマリーをアルコールに漬け込んで作った美容液を塗り込み、その後バラの香料の入ったクリームを塗り込むのだ
グレースは、裸になることを恥ずかしがることなく、一連の施術を一日三回は受けていた。
施術の最中、侍女長がグレースの部屋に入室をした。
侍女長は、グレースの美容ののめり込み具合に少々呆れつつ、国王主催の夜会が三日後に開催されることを告げた。
「陛下主催の夜会ですって? メアリー、そろそろ、あの特製シャンプーをするわ。準備して」
はい、とメアリーは返事をした。
特製シャンプーとは、卵黄とコニャックを混ぜたものだった。
グレース曰く、卵黄はパサついた髪をサラサラにし、コニャックは髪に艶とコシを与えるらしい。
国王主催の夜会のため、グレースは三時間かけて黒々とした髪を結い上げていた。
メアリーは気合を入れてグレースの黒髪と向き合っていたが、別のメイドは“いくら美容に気遣おうとも、パトリックの愛は準男爵令嬢フローラに捧げられているので意味がない”と嘲笑った。
メアリーがムッとして言い返そうとするも、グレースは鏡の中で嫣然と笑い、「この美容は旦那様のためではなくてよ」と言った。
髪が整ったら、グレースは部屋を出て、玄関先で待つパトリックに会いに行く。
今日のグレースのイブニングドレスは、深い海色をした、彼女の瞳と同じ色のものであった。
コルセットはきつく締め上げられ、日頃鍛えたグレースの細い腰は強調されていた。
グレースは優雅に階段から降りて行き、下で待っているパトリックの目を釘付けにした。
「……美しいな」
フローラを愛しているはずなのに、グレースの美しさを認めてしまった敗北感を滲ませつつ、パトリックが賞賛すると、グレースは得意げな気持ちになった。
でも、貴方のためじゃないのよ。
相変わらず、夜会にはフローラもその兄と出席をしており、兄はどこかに消え、残されたフローラは、すぐさまパトリックの腕に絡みつく。
フローラの少し傷んだ赤毛が目の前を掠めると、グレースは今までの努力が身を結んだことに喜びを覚えた。
フローラの方はというと、緑色の瞳でグレースを捉えると、得意げな様子を滲ませている。
だが、グレースは気にしない。なぜならグレースは誰よりも美しいからだ。
グレースは結婚当初は壁の花になっていたが、近頃では人妻と遊びたい貴族男性たちから声をかけられるようになっていた。
グレースは、始めはダンスを断っていたが、徐々にその男性たちの中から、有力な地位に就いた男性とダンスをし始めた。
そもそも、声をかけてくる男性のほとんどが伯爵以上の爵位を持った余裕のある男性たちだった。
このところ、アシュリー公爵とは毎回初めのダンスを踊っている。アシュリー公爵は、グレースよりも15歳は年上ではあったが、まだまだ美しさを保った男盛りの男性だった。そして男寡でもあった。
「レディ・ハワード、何度もダンスをしているのに、貴方はこれ以上の仲になろうとはしないね」
アシュリー公爵は、ダンスより先を仄めかしてはいるものの、グレースは首を縦には振らなかった。
「まあ、アシュリー公爵ともあろう方とは、これ以上は恐れ多いことでございますわ」
ダンスを踊りながら、グレースは嫣然と笑う。アシュリー公爵では駄目なのだ。
「レディ・ハワードからの情けが欲しい男はたくさんいる。貴方は鉄のような方だ」
このところ、グレースは“鉄壁の貴婦人”と呼ばれていた。
社交界では、“鉄壁の貴婦人”を陥落させるのは誰なのか、と賭けにまで発展する始末であった。もちろん、フローラに夢中な“鉄壁の貴婦人”の夫はそのことを知らなかった。
アシュリー公爵とのダンスの後、疲れたグレースは椅子に座っていた。
座りながら、グレースはぼんやりと広間に目を向ける。夫のパトリックは、フローラと楽しそうに笑いながらダンスをして回っていた。
そうやって、恋人に夢中であればあるほど、グレースの夜会での動きに気付かないことがグレースにとっては有り難かった。
「オナラブル・グレース・エドモンストン?」
グレースの結婚前の呼び名が聞こえ、グレースは右横に目を向けた。
「今は結婚して、“レディ・グレース・エドモンストン・ハワード”でございます。国王陛下に拝謁いたします」
グレースは椅子から立ち上がり、カーテシーをした。
「エドモンストン男爵には世話になっておるのでな、思わず婚姻前の呼び名で呼んでしまった。すまなかったな、レディ・ハワード」
「いえ、その呼び名で、娘時代を懐かしく思いました」
「そうか。レディよ、一曲お相手してくれるか?」
「もちろんでございます、陛下」
グレースは艶やかに笑った。
イチゴとオイルを混ぜたパックをグレースは顔に塗り込みながら、国王からの手紙を読んでいた。
あの国王主催の夜会以来、国王からはひっきりなしに手紙や花が届く。
初め、グレースはあっさりとした内容で手紙を返したが、だんだん親密な内容で手紙を返していった。
国王はグレースとは二十は歳離れているが、国王らしく威厳に満ちている姿は他の誰にも得難いものだった。
「なにか、いいことありまして?」
メアリーがグレースに訊いた。
「すっごく、いいことよ」
グレースはにこやかに笑った。
「それは、よかったです」
「ええ、メアリーにもお裾分けしたいくらい」
グレースはうきうきしながら、パックを塗り込んだ。
国王主催の夜会が再び催された。
グレースは瞳の色と同じ海色のドレスを纏って参加した。
いつものようにパトリックと出席し、パトリックと離れたが、違うのは、初めのダンスを国王と踊ったことだった。
国王と軽やかにダンスを楽しんだ後、グレースは耳元で国王から囁かれた。
「――貴女のことをもっと知りたい」
グレースは嫣然と笑った。
それは勝利の微笑でもあった。
国王主催の夜会から十日後、グレースはメアリーと自分の部屋を整理していた。
「……意外と荷物が多いのねえ」
グレースが呟くと、メアリーは、
「そりゃ、そうですよ。奥様の美容器具は結構かさばります」
と言った。
「でも、必要なのよ」
「正直、あたしはそんなにいらないと思っていました」
「でも、必要だったでしょう?」
グレースが得意げに笑うと、メアリーはつられて笑った。
二人が楽しく笑っていると、急にノックもなしにドアが開かれた。
パトリックが苛立ちを隠さぬ様子で立っていた。
「どうかなさいましたか、閣下」
グレースが夫に訊くと、パトリックは怒りを滲ませながら言った。
「――どうしたもこうしたもない。王宮へ行くとはどういうことだ!」
「まあ、怒鳴らないでください。閣下」
「お前は国王の愛人になるというのか!」
うわあ、はっきり言うなあ、とグレースは思った。
「あら、陛下の愛妾になれば、閣下にも旨味がありましてよ」
「何を言ってるんだ! こっちは寝取られ夫とずっと言われ続ける!」
「まあ……閣下にはフローラ嬢がいらっしゃるではありませんか。今更、他人の目を気にしてどうするのですか?」
パトリックと独身女性フローラの不倫は、貴族社会ではずっと噂になってきたのだ。
婚前の独身女性を貶めても気にしない、鈍感で残酷な男が既婚女性グレースの不倫を気にしたところで何の意味もないだろう。
「……なんだと!」
「まあ、なんて面倒なのかしら。閣下はフローラ嬢とよろしくやってなさいな。独身女性とふかーい関係を持っている残忍な男のくせに偉そうにしないで欲しいわ」
およよよ、とグレースはメアリーの肩に顔を押し付けた。
「くっ……」
図星だったのか、パトリックは押し黙り、グレースを一睨みすると、大きな足音を立てて出ていった。
「奥様、旦那様がお怒りですが、どうされますか?」
「気にしなくていいわよ。たかが、伯爵に何ができるというの」
相手は国王よ、と言ってグレースは笑った。
しかし、他の女を愛していると宣言したくせに、面倒なことを言うな、とグレースは思っていた。
グレースは三日前に、手紙をくれたアシュリー公爵を思い出した。
――公妾になってもいいので、再婚してくれないか、とアシュリー公爵の手紙に書いてあったのだ。
どうせ、愛がないなら許容をしてくれる人と結婚していた方がいいだろう。
いずれ、パトリックとは離婚して、アシュリー公爵夫人にでもなろう、とグレースは心に決めた。
完
作中の美容法は実際のオーストリア皇后エリーザベトが実施していたものです。




