魔の迫る足音
銀輪亭に帰ってきたシャルロットは、怪訝な顔で二人を見つめていた。
表情の柔らかくなったユーリカ。
これはわかる。ティスの決意の経緯は、当時、応援に合流した際に聞いた。
のみならず、上機嫌でそわそわと浮き足立っているミレア。
こちらがわからない。
自分たちが調査の依頼に出かけた数日の間に、いったい何が起こったというのか。
浮ついた視線を厨房に贈るミレアに、シャルロットはじとりと目を細める。
「……何がありましたの、ミレア?」
「な、何でもねーよ? ただ、ティスが可愛くてなぁ」
まるで恋する乙女のような落ち着きの無さである。
でれでれと語るミレアの様子に、シャルロットは閉口した。ミレアの気持ちは傍目から見て丸分かりだったが、今までならばそんな感想を表面に出すことは無かったはずだ。
その変わりように、自分の留守の間に彼女とティスの中で何かがあったのだと女の勘が告げていた。
シャルロットがそのことを問いただすより早く、ティスが遅めの昼食を持ってやってきた。手には二人分のトレイを持っている。
「お待たせしました、シャルロットさん。昼食のお客さんが引けてるんで、俺も食事休憩にして良いそうです。ご一緒しても良いですか?」
「もちろんですわ! ティスと一緒に食事ができるなんて、今日は良い日ですわね!」
普段は厨房で賄いを食べるティスだ。
客が少なく、親しい三人が食堂に揃っているので、女将が気を利かせたのだろう。
降って湧いたような幸運に、シャルロットの心は弾んだ。
口にする煮込みもパンも、いつもより美味しく感じる。
別のテーブルのコノート三姉妹も羨ましそうな視線を向けていたが、同じ食堂で食事をしているためか、心なしはしゃいだ表情にもなっていた。
「ティス。口元汚れてるぞ」
「あ、すみません。ミレアさん」
ミレアが身を乗り出して、蓮向かいに座るティスの口元を、手布で拭う。
まるで幼い子の世話をするような甲斐甲斐しさに、シャルロットの目が細まった。
「ミレア。……まさか、貴女、ティスに手を出してませんわよね?」
「ななな、何言いやがる!? ティスの純潔を奪ったりはしてないぞ!? ただ、あたしはティスの姉としてだな!?」
「……姉?」
眉根を寄せるシャルロットに、ティスがはにかみながら、照れた様子で口にする。
「ミレアさんが、お姉ちゃんだと思えって言ってくれたんです。俺、一人っ子だったから、嬉しくて。それに相手がミレアさんですし」
「そういうこった! 弟のことを気遣うのは、姉として当たり前だろ!」
ミレアは顔を真っ赤にして、弁明するように叫ぶ。
だが、その本心が透けて見えたシャルロットは、猛然とミレアに噛み付いた。
「何が姉ですの、ティスのこと狙う気満々ですのに! 弟に思いを寄せる姉だなんて、血がつながってないとしても不健全ですわよ!?」
「バカ言え! あたしは純粋に、ティスの保護者としてだな!?」
「それじゃあ、聞きますけれど。何も知らないティスが、夜の作法がわからないって困ってたら姉としてどうしますの」
「う……」
ミレアはその光景を想像して、耳の先までのぼせ上がった。
顔をにやけさせながら、あくまで表面上は困ったような顔で身もだえする。
「そ、そのときは、仕方ないな。姉貴が優しく、女の隅々まで詳しく教えて……」
「食べる気満々じゃありませんの! 義弟に欲情する義姉なんてふしだらですわ――ッ!」
絶対に健全な間柄にならない、とシャルロットは憤慨した。
ミレアとて、亜人ながらに見目の良い健全な女である。
最強にして最恐の種族である竜人でなければ、初心な男を惑わせる美少女と言えたろう。
思わず二人の睦み事を想像して、シャルロットの倒錯と混乱は頂点に達していた。
「二人とも、その辺にしなよ。ティスが困っているよ」
ユーリカの一言に、言い争っていた二人の動きはぴたりと止まった。
ティスは生々しい話題に顔を真っ赤にし、もそもそと食事を食べている。
ティスとて健全な男である。そういう願望は無いわけではない。
けれども、望む相手は決まっているし、夢に外れる寄り道に溺れるようなことを考えるのには抵抗があった。
世間知らずの少年に芽生えた、遅めの思春期だった。
ちらり、と恥ずかしそうな視線をユーリカに向けるティスに、ティスを巡って言い争っていた女二人はぐぬぬ、と悔しそうに歯噛みした。
「ま、まぁ。二人とも、のん気にしてられるのも今のうちですわよ」
ふと、正気に返ったシャルロットがそんなことを言った。
ユーリカとミレアの眉が同時に上がる。
「どういう意味だい、シャルロット?」
場の空気が変わった。
二人の顔つきが、休暇から、緩みの無い上級冒険者のものへと変わる。
「下手すると、この街の冒険者にギルドから召集がかかるかもしれませんわ」
シャルロットは周囲を見渡し、誰も聞いている客がいないことを確認して、声をひそめて続けた。
「誰もいないから話しますけど。――つい先日、隣の防衛都市キャスラックが、凶種の大群に飲み込まれて壊滅したらしいんですの。ナルカス商会のトネリコから、道具の補充ついでに聞いてきたから間違いありませんわ」
「防衛都市が? ここから歩いて二週間と離れてねーぞ」
「凶種の群れ、と言ったね。常駐軍や衛兵隊では駆除できなかったのかい?」
シャルロットは神妙な面持ちで、コクリとうなずいた。
「街の外を埋め尽くすほどの群れだったそうですわ。その数は遠く、地平までをも染め上げるほどだと。たぶん、ギルド上層部にはもう伝達が届いてると思いますの。隣の防衛都市が駆逐し切れなかった以上、この街も他人事ではありませんわ」
「大暴走かよ……久々だな」
「あの。スタンピードって、何ですか?」
小首をかしげるティスに、シャルロットが説明する。
「凶種や昆虫の異常繁殖ですわね。気候や他の条件が重なって、稀に起こることがありますの。そういうときは、ギルドが冒険者を収集して組織的に駆除に当たりますのよ」
なるほど、とティスはうなずく。
自然災害の一種か、と納得した。
だが、ユーリカが首を振ってその可能性を否定する。
「大暴走じゃないね。凶種の大暴走は、大きな戦などがあった後に、戦場の大量の屍をエサにして一斉繁殖した結果、起こるんだ。最近はそんな大きな戦は一度も起きてない」
「でもよ、ユーリカ。ここのところ、凶種が異常発生してるって報告があったじゃねーか。少しずつ増えてたんじゃねーのか?」
「ただの自然発生なら、ギルドがその原因を突き止めて予防できなかったと?」
ユーリカの指摘に、ミレアが口を閉ざす。
ぽつり、とユーリカの唇が動く。
「『召喚魔術』……」
ぎくり、とシャルロットの表情が凍った。顔色を蒼白に染めながら、彼女は慌てて反論する。
「しょ、召喚魔術は禁術ですわよ? 使えるほど『加護』の大きな種族はおりませんわ! 今は滅びた魔族が、何人も集まってようやく――」
シャルロットは、自分の口にした言葉に、さらに血の気を引かせた。
まさか、と言葉を失う。
その予想をさえぎるように、ユーリカは続けた。
「もしもの話だよ。神殿の伝承程度にしか伝わってないからね。今はまだ、自然災害の可能性も捨てきれない。何にせよ――」
向かいのミレアを見る。
ミレアもまた、承知していたようにうなずいた。
「一般冒険者じゃなくて、あたしたちA級冒険者が先に集められるな。ギルド長を含めたトップだけの話し合いだ」
そうだね、とユーリカは静かにうなずく。
シャルロットのもたらしたその情報は、下手をすると――
「私たち七人のA級冒険者が、一堂に会する事態かもしれない」




