少年のくちびる
目が覚めたとき、唇に柔らかい感触を感じた。
まぶたを開けると、目を瞠るような美少年が自分に口づけをしているところだった。
「な、な……?」
おぼつかない頭を起こしながら動転していると、少年は、涙を目に滲ませ、心の底から安堵したような顔で、喜んだ。
良かった、目を覚ましたんですね、と。
初めて目にする笑顔に見えた。
その表情ほど綺麗なものを、彼女は生まれて、今に至るまで見たことが無かった。
それが、B級冒険者、エンデ・ロクターが蘇生したときの記憶だ。
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「良かった! 目を覚ましたんですね!」
回復薬で怪我をすべて癒したティスは、涙ながらに安堵した。
鎧通しをその身に受けたエンデが、蘇生法によって息を吹き返したからだ。
エンデは自分を囲むライムやミレア、ユーリカたちを見渡し、地に倒れた自分の姿を見下ろす。そして、ぽつりとつぶやいた。
「……そうか。負けたのか、私は」
「負けたどころの話じゃないぜ。エンデ、お前さん、心の臓が止まってたんだよ」
ミレアの指摘に、エンデは息を呑んだ。
心の臓が止まる。それはとりもなおさず死を意味する。
では、今こうして話している自分は何なのか。
その答えを、ユーリカが告げた。
「ティスがきみの心の臓を動かしたんだよ。胸の上から、何度も手を押し込んでね。何のまじないかと思ったが、理由を聞かされて目から鱗が落ちそうになった」
「あ、えーと……人間は、心臓が止まっただけじゃ、まだ死んではいないんです。衝撃で動きを止めた心臓に、骨ごと押し込んで強く刺激を与えることで、また動き出すことがあるんです。特に、大怪我や大量に血を失ったりせずに止まった場合は望みがあります」
手や足の痺れを揉み解すのに似ているそうだ。
ティスの説明に、エンデは唖然とした。
一度止まった心臓をまた動かす。魔法か、神の奇跡かという領域だ。
けれどもティスの話によると、単なる人間の身体の仕組みなのだと言う。
エンデは、生命の神秘を垣間見た気がした。
「ごめんなさい!」
ティスが、がばりと大きく頭を下げる。
突然の仕草に、エンデは目を丸めてティスを見た。
ティスは、座して地に頭をつけんばかりに平伏した。
「危険な技を使いました。あの技は、禁じ手なんです。本来、試験で使うようなものじゃなく、命のやり取りで使う技なんです。エンデさんに死の危険を負わせました。……謝っても謝りきれません」
鎧通しは、相手の内部に直接衝撃を与えて心臓を止める技だ。
相手を制圧する武技ではなく、戦場で相手を仕留める即死技と言える。
少なくとも、ティスの命を奪おうと思っていなかったエンデに使う技ではない。
そう謝るティスに、エンデはふっと相好を崩した。
「謝ることはない。私は、どんな手段を使ってもいいと言った。冒険者は命のやり取りをすることが常の危険な職業だ。私だって、お前を痛めつけようとした。そこに死の危険が無かったとは決して言えないだろう?」
エンデは憑き物が落ちたように、安らかな表情で息を吐く。
「命のやり取りをする気概を持った男が、冒険者を目指すのなら言うべきことはない。男の受験者は、どうしてもおままごとめいた甘えを持つ奴が多いからな……最優先は自分。自分の身命を守るために目の前の敵を全力で倒す。それは、冒険者の鉄則だ」
気にすることはない、とエンデはさばさばした空気で笑った。
高位の冒険者だけはある。修羅場への慣れから生まれる、強者の余裕があった。
その言葉に、ティスもほっと胸を撫で下ろす。
と、ふと、エンデは周りを見渡して眉根を寄せた。
「どうした、ライムはともかく……ミレアやユーリカまで、なぜそんなに不機嫌そうな顔をしている? 私を倒したのだから、合格を喜んでもいいだろうに」
「それはね、ティスくんが貴女にしたことが原因よ」
激情を押し殺した声で答えたのは、ライムだった。
言われて、エンデは思いだす。目を覚ましたとき、ティスの顔が間近に見えたような。
「何をしたんだ?」
「あ……その。呼吸も止まっていたので、口から直接息を吹き込んで、肺を動かしました。人工呼吸と言って、心臓を動かす術と合わせて心肺蘇生法という救命法なんです」
口から息を。直接吹き込んで。
ティスの、唇を押さえた恥らうような説明が、エンデを固まらせる。
「そ、それは……口づけということか?」
「そうよ! いきなりティスくんが倒れてる貴女にキスし始めたのよ! あまりのことに、見てた全員が叫びだしたわよ!」
ぎくしゃくと、エンデはティスに向き直った。
「お、お前は……そういうことに、慣れているのか?」
「女性に行ったのは初めてです。……勝手にすみません。やっぱり、不快ですよね?」
「ティスくんの初めてがっ! 私がもらうはずだったのに!」
感情を表に出して騒ぐライムはさて置いて。合格を喜ぶべきミレアも、嫉妬に染まった苛立たしげな笑みを浮かべている。隣のユーリカも、ひょうひょうとしてはいるが表情がぎこちなかった。
その瞬間、エンデは自分が、少年の初めての唇を奪ったのだと真っ青になった。
「少年。……いや、ティス! このエンデ、高位冒険者として責任は取る。お前が唇の純潔を失うことになったのは、私の油断と慢心が原因だ。かくなる上は、私の夫になってくれ!」
「待ちなさい、エンデ――ッ!」
「エンデ、それは許さねぇ! 先走りすぎだぞ、てめぇ!」
途端に、ライムとミレアから悲鳴が上がった。
エンデは周囲の非難を意に介さず、思いつめた表情でティスの手を取る。
「ティス。お前のことは、私が守る。お前のように可憐な少年が夫となってくれるなら、これ以上は望むべくもない。どうか、私に責任を取らせてくれないか?」
「お、大げさですよ、エンデさん。人命救助なんだから、気にしないでください。原因を作ったのは俺ですし……」
ティスは女性に間近に迫られ、思わず顔を赤らめた。
その表情が、責任感に覆われたエンデの無意識を焦がすことも知らず。
ティスはエンデの手を握り、柔らかく微笑んだ。
「それに、俺は守られる側じゃなく、守る側になりたいんです。ユーリカさんやミレアさんたちを支えて守れるくらいに。――俺が鍛えてそんな男になれたとき、もしエンデさんが望むのなら、そのときもう一度聞かせてください」
断りの言葉に、エンデは、胸の痛みを感じた。
打撃に止められた心臓の後遺症なのだと思い込んだ。
だが、同時に少年の微笑を見て起こる、高鳴りに説明がつかない。
ティスの目がユーリカとミレアに向いていることが、なぜだかとても苦しかった。
不可解な感情を振り切るように、エンデは笑った。
重々しくうなずき、試験官としての最後の義務を全うする。
「ティス・クラット。お前を、新たな冒険者として認定する!」
冒険者ティス・クラットの生まれた瞬間だった。




