羽化/捕食する死の蛇
ジュリアスさんは剣の切っ先をメフィストに向けながら、静かな瞳で泣きじゃくるミンネ様を見据えた。
それは一瞬で、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
「お前たちの本当の目的は何だ? ただの道楽か。人の世界を支配するというには、あまりにもぬるい」
「……私たちには興味がないのではなかったのかな」
サマエルの横で膝を突きながら、メフィストが答える。
長い艶やかな黒髪が、黄金色の砂の上に滝のように落ちている。
その声は、苦痛に掠れていた。
悪魔も、痛みを感じるのだろう。
切り取られた翼は、再生できないみたいだ。
「あぁ、興味はない。だが、お前たちをここで殺して、これで終わりとは思えない。俺は早くお前たちとの無益な戦いを終わらせたい。お前たちは何故、何年も人に紛れて遊んでいる。何のために」
「そこに意味などないよ。私はただ、遊んでいるだけ。人という玩具でね」
メフィストは肩をすくめた。
「長く生きていると、とても退屈なんだよ。天使たちはしつこく、うるさい。罪人ばかりが落ちてくる冥府は、鬱々として暗いばかり。悪魔たちは天使を恨み続けて、何も変わらない。魔物たちは可愛らしいけれど、それだけ。人の世界の方が、よほど面白い」
「お前の力で、この世界を生も死もない楽園にするのだと、クロエの妹は言っていた」
「人間というのは、皆それを求めたがる。不変で永久に続くものほどつまらないことはないというのにね。そう思うだろう、ジュリアス。君ほど死を求めている男にとって、そんな世界など怖気がするだろう?」
「お母様がこの世界に異界の門から落ちてきた時の、記憶を見ました。あなたたちは、天使の軍勢に負けたのですね。だから、異界ではなくこちらの世界に逃げてきたんじゃないですか?」
ジュリアスさんとメフィストの会話を断ち切るように、私は言った。
これ以上、ジュリアスさんには、メフィストとの会話を続けて貰いたくない。
何故だか、胸騒ぎがする。
ジュリアスさんの体の奥の方にある、繊細で柔らかい場所に無遠慮に触れられているような不快感を感じて、私は眉を寄せた。
「随分愛らしい挑発だね、クロエ。子猫が毛を逆立ているような、無意味で可愛らしいだけの、空虚な言葉だ。異界も、この世界も、愚かで傲慢な神が作ったもの。異界で神に反逆するよりも、この世界を思うままに壊した方が、よほど有益ーーだそうだよ。私はサマエル様には従うけれど、あれには、あまり興味がない」
「あれとは」
「ジュリアス。君はーーすでにあれを、知っているだろう。残忍でおぞましい誰よりも最悪な悪魔。麗しのサマエル様とは何もかも違う、あの醜悪な存在」
メフィストは、心底嫌悪しているような表情を浮かべて、忌々しそうに言った。
あれーーとは、多分、悪魔のこと。
サリム・イヴァンの手記に出てきた悪魔の名前は、四人。
冥府の道化師メフィストと、死の蛇サマエル、叡智の王バアル、血と劫火の■レク。
残り二人のどちらかを、ジュリアスさんは見たことがある、ということなのかしら。
「お喋りはそのぐらいにしようか、メフィスト」
小さく掠れた声が、メフィストの言葉を制止した。
サリムの手が持ち上がり、愛おしそうにミンネ様の頬を撫でて、涙をすくう。
ミンネ様は肩を震わせながら、切なげに眉を寄せてそれを受け入れている。
その中身はサリムじゃないときっとミンネ様は理解している。
けれど、それでもーーその形がサリムである限り、愛しく思ってしまうのかもしれない。
「私のために泣いてくれてありがとう、ミンネ。……私を、愛してくれているのだね」
「サリム様……っ、私は、私は……、陽の光を浴びると肌が焼け爛れてしまうので、薄暗い部屋から外に出ることができなかった私の元に、毎日来てくださったあなたが、好きでした」
「そうだね、ミンネ。私は、君の元へ通い、魔法を使って動物や、草原や、海の幻を作った。部屋に星空を浮かべて、君と一緒に眺めた。覚えている」
サマエルは、サリムの記憶を見ているのだろう。
ミンネ様は目を見開くと、新しい涙で大きな瞳を潤ませて、何度も頷く。
「私は、二十歳まで生きられない。それで良いと思っていたのです。けれど、サリム様が愛しいと思うほど、生きたいと、思ってしまうようになった。私の叶うはずもない我儘が、サリム様を追い詰めて、こんな、ことに……」
「私は、君が生きていてくれて嬉しいよ、ミンネ。どうか、泣かないで。……君のために、私は、ここで死ぬわけにはいかない。……一つだけ、お願いを聞いてくれる?」
ミンネ様は力無く落ちそうになったサリムの手を両手で握ると、何度も頷く。
「ミンネ様、駄目です! 悪魔に耳を貸しては……!」
私の声は、ミンネ様には届かない。
助けてと叫んでいたように思えたのに。アリザの手を、私は掴めなかった。あの時と、同じ。
「私とともに生きることを、永遠に、共にいることを選んで。私が生きる限り、君も生きられる」
「サリム様……、はい、私は、サリム様とずっと、一緒に……」
ミンネ様の瞳は、私たちの姿を映さず、声も聞こえていないように見えた。
サリムの体から、細く黒い蛇のような影が何本も、ずるりとミンネ様に向かって伸びていく。
ミンネ様はうっとりとした幸せそうな表情で、目を閉じている。
何匹もの黒い蛇が膨れ上がるようにして一斉に、ミンネ様の体に纏わりつく。
ミンネ様の姿が見えなくなるぐらいに体を覆われても、悲鳴ひとつあがらなかった。
それは一瞬のことだった。
蛇の大群がサリムの体に、排水溝に流した最後の水のように戻っていく。
そこにはもうミンネ様の姿はない。
サリムは、操り人形のように力の入らない手足を奇妙に折り曲げながら起き上がり、体をくの字に曲げた。
膝と頭が地面について、背中を上に向けている。
その背中が、蛹から蝶が羽化する時のように、ぱっくりとさけていく。
まるで服を脱ぎ捨てるようにサリムの中から、美しい少年が顔を出した。
小柄で細い体の少年は、フリルがたっぷりと使われた黒い服を着ている。
銀の髪に、赤い目をした、少女にも見える中性的な容姿の美しい姿の少年は、冷酷な瞳で跪いているメフィストを見下ろした。
「人の皮を被っていると、駄目だね。調子が出ない。メフィスト、せっかく私の力を分けてあげたのに、情けない姿だ」
「サマエル様。やはりあなたは、美しい。人の皮をかぶるなどおやめください。虫唾が走ります」
「私が契約を交わしたサリムの体はもう使えない。その代わり、ミンネを貰った。ミンネはお前の契約者だったね、メフィスト。私にくれるだろう?」
「勿論」
「お前の力も私にくれる?」
「ええ、サマエル様。私はもう十分に遊びました。あとは、サマエル様のご随意に」
サマエルの手が、メフィストに伸びる。
ミンネ様を捕食した時と同じように、黒い蛇がメフィストを飲み込んでいく。
あまりにも呆気ない終わりだった。
メフィストはーー私の家族の仇だった悪魔は、蛇が鳥の卵を捕食するように、一飲みでサマエルに取り込まれてしまい、跡形もなくいなくなってしまった。
メフィストの、ジュリアスさんに切り取られて残った二枚の翼が、サマエルの背からばさりと大きく伸びる。
濡れた羽根を陽光で乾かすようにして、その二枚の翼の下から、さらにもう四枚の翼が現れる。
六枚の漆黒の翼が、天使のように美しい少年の背中から、不吉の訪れのように広がっている。
ジュリアスさんがサマエルの前に、一瞬で移動するようにして駆ける。
砂漠の上なのに、まるで体重を感じさせないぐらいに軽やかに地を蹴って、剣を振り下ろす。
サマエルは翼を広げて、ややよろめきながら一歩下がった。
その姿がぼやける。サマエルの姿は、恐怖に身をすくませるミンネ様へと変わった。
翼もない。それは先ほどまで目の前にいた、ミンネ様にしか見えなかった。
「無駄だ」
目の前の敵がミンネ様の姿になっても、ジュリアスさんは動揺もせずに、その首を刎ねようとする。
「ジュリアスさん、待って……!」
お母様の力で私は、魔物に姿を変えられたエライザさんたちを、助けることができた。
私はお母様の力を受け継いでいる。
だとしたら、私にもミンネ様を救うことができるかもしれない。
こんな終わりで良いとは、思えない。
私は、アリザを救えなかった。
もう誰も、悪魔のせいで失いたくない。
私の制止に構わず、ジュリアスさんは剣を下ろそうとする。
隷属の首輪の制約が発動したのだろう。ジュリアスさんの体に小さな切り傷が無数にできて、血が流れ始める。
制約は『私の嫌がることはしない』こと。
それでもジュリアスさんは、ミンネ様をーー
「下がりなさい、ジュリアス!」
今まで静かに見守っていたナタリアさんが、厳しい声をあげた。




