舞い散る黒羽
砂漠の上に座り込んでいる私と空の上にいるジュリアスさんの間にはかなりの距離がある。
けれどジュリアスさんとヘリオス君の二人と、はっきり目が合った気がした。
途端に、ヘリオス君の金の瞳が夜空に煌々ときらめく恒星のように、輝いた。
ヘリオス君が「ギュオオオン」と大地を揺るがすような、太く長い声を上げる。
今までに聞いたことがない声だ。
深く激しい怒りを孕んだ、猛々しい鳴き声と共に、ヘリオス君が黒い落雷のように砂塵の中心に向かって急降下する。
ナタリアさんの錬金道具が作り出した星々が落ちた砂塵の中央には、メフィストがいる。
真っ直ぐにジュリアスさんを乗せたヘリオス君がその中に落ちるように飛び込むと同時に、砂塵の中から飛び出す影がある。
徐々に砂ぼこりがおさまって、視界が明瞭になってくる。
ジュリアスさんに放り出されたのだろう、サマエルが無残な姿で砂の上に横たわっている。
砂塵から飛び出した黒い影は、メフィストだった。
ナタリアさんの攻撃で欠損した体が、瞬く間に修復されていく。
三枚の翼をはためかせて空中で向きを変えると、メフィストと同じぐらいかそれよりも速い速度で追尾するヘリオス君に向けて、片手を広げた。
その手は鋭く尖った剣へと姿を変える。
空を蹴るようにしてジュリアスさんに向かい襲来するメフィストに、ジュリアスさんは黒い剣を向ける。
「動きが鈍っているぞ、羽虫。再生が追い付いていないんじゃないか?」
「残念だ。もう来てしまったんだね。せっかく腕によりをかけたフルコースで迎えてあげようと思ったのに。クロエを肉塊に変えて、メインの皿に乗せて、ね」
どちらが悪役か分からないようなことを言ってメフィストを挑発するジュリアスさんを、メフィストは更に嘲笑った。
「けれど、目の前で殺してあげるのも、悪くない。私は、君の絶望が見たい。君からクロエと飛竜を奪ったら、君が戦う理由はなくなるのだろう。人間とは、感情で動く生き物だ。絶望し、恨み、憎み、そして――君が世界を、滅ぼす未来が、必ず訪れる」
ジュリアスさんと剣を合わせながら、メフィストが舐めるような声で言う。
確信に満ちた響きのある声音に、私は眉を寄せた。
それは、今まで言われた言葉の中で、一番腹が立つものだった。
何を言っているのかしら、メフィストは。
ジュリアスさんは、そんな人じゃない。
「世界を滅ぼす? 俺は、世界も、お前たちもどうでも良い。どうでも良いものを憎み、壊すほど、俺は暇じゃない。路傍の石に感情を向けて、無意味に蹴るのは幼い子供ぐらいだろう。それでお前は、感情を理解したつもりでいるのか。愚かだな」
私が反論を口にする前に、ジュリアスさんが静かに言った。
触れただけで手が凍えそうなほどに冷酷で平静な声音だった。
メフィストの腕が変形した剣を、ジュリアスさんは軽々とはじき返す。
その衝撃で弾き飛ばされたメフィストが体勢を立て直す前に、ヘリオス君メフィストの背後に宙返りをするようにして回り込んだ。
ジュリアスさんがメフィストの羽を無造作に掴む。
「残り三枚」
黒い剣が鈍く光る。
破邪魔法をかけていない剣は、メフィストの羽に食い込んだけれど切り落とすまでには至らない。
暴れるメフィストの背中に足をかけて、ジュリアスさんは力任せに剣を翼の付け根に押し込むようにした。
罠にかかった烏がもがくように、ばさばさと掴まれていない二枚の翼が乱雑に羽ばたく。
黒い羽が何枚も、黄金色の砂漠に舞い落ちてくる。
ジュリアスさんの圧倒的な強さに、私は息を飲んだ。
――躊躇なく、容赦なく敵を切り裂く、黒太子ジュリアス・クラフトの姿。
じわりと、涙が滲みそうになる。
呼吸をするのを忘れていたみたいだ。
ふと感じた苦しさに、喘ぐように息をついた。
「剣の切れ味が悪いと、苦痛が長く続くだろう。喜ぶと良い。お前たちは、苦しみが好きだったな、確か」
メフィストのくぐもった呻き声が聞こえて、私は眉を寄せた。
それからほんの少しだけ残っている魔力をかき集めて、破邪魔法を使おうと、ジュリアスさんの剣に杖を向ける。
「お前は見ていろ、クロエ。この羽虫に、お前の魔法は勿体無い」
ぶちぶちと嫌な音を立てて、黒い翼が引きちぎられる。
引きちぎられた翼がとさりと砂漠に落ちる。落ちた翼は黒い粒子となって消えていく。
二枚羽になったメフィストが、よろよろと空から落ちてくる。
砂漠に倒れているサマエルの横に膝をついて、両手で自分の体を抱きしめるようにして、背中を押さえた。
サマエルは意識はあるようで、メフィストの方へと視線をちらりと向ける。
翼を失ったからなのだろうか、メフィストの魔力がその体から零れていっている。
それは羽の引きちぎられた背中の傷跡から、黒いどろりとした血液のように、流れ落ちていく。
「サリム様……!」
魔力が失われて維持ができなくなったのだろう、ミンネ様が閉じ込められていた牢獄がいつの間にか消えていた。
ミンネ様がサリムの姿をしたサマエルに駆け寄って、その体に縋りつくようにして抱きついた。
華奢な肩が震えている。
小さな嗚咽に、胸が痛む。
ヘリオス君が静かに私の横へと舞い降りてきて、とても心配そうに私の頬を鼻筋でつついた。
大丈夫だと、私はヘリオス君の鼻先を撫でる。
怒りで輝いていた金色の瞳は、今は不安気に揺れている。
本当は立ち上がってその顔をぎゅっと抱きしめたかったけれど、もう足が動きそうにない。
情けないわよね。
結局私はいつも助けられてばかりだ。
お母様やお父様、そして、ナタリアさん。
皆がいなければ――こうしてジュリアスさんともう一度会うことができなかった。
とっくに命を落としていただろう。
ヘリオス君のひやりとした顔に触れると、なんだか安心してしまって、目尻にたまっていた涙が零れた。
泣いている場合じゃないのは分かっているのだけれど、今更のように体が震える。
ヘリオス君が私の顔に自分の鼻先をすりつけてくれる。もう大丈夫だと言ってくれているような気がした。
ジュリアスさんが、ヘリオス君から軽々と降りてくる。
私の横を通り過ぎるときに、軽く頭に手が置かれた。
力強い大きな手の感触に、ずっと強張っていた体の緊張が、解されたような気がした。
何も言わずに、ジュリアスさんが私とナタリアさんの前に立ち、剣をメフィストへと向ける。
メフィストは痛みをこらえるようにして俯いている。
動かないサマエルに縋りついていたミンネ様は顔を上げると、嫌々と首を振った。
首を振ると零れ落ちる涙が宝石のようで、こんな時なのに、ミンネ様はどこまでも可憐で美しかった。




