怒れる道化師
メフィストは作り物めいた美しい顔を怒りに歪めながら、大きく両手を広げる。
手のひらから放たれた闇色の光刃で捕食しようとしてくるハエトリ草を切り裂いて、そのままばさりと翼をはためかせると、一瞬のうちに私の目の前まで飛んだ。
「遊びはもう終わりにしようか」
ぐい、と腕を掴まれる。
ぎりぎりと締め上げられて痛みに眉を潜めた私の視界には、凶悪に尖った刃の形に変形したメフィストの片腕が映る。
「こんなに小馬鹿にされたのは、はじめてだ。無力な虫けらに、この私が」
「もしかして、怒ってます? でも私の方がもっと、ずっと怒っていますから! あなたのせいでアリザちゃんや、お父様、それからもっとたくさんの人たちが、命を落としました。私はあなたを許してあげません」
腕に爪が食い込んで、じわりと血が滲んだ。
痛い。痛いけれど--皆、もっと痛かった筈。
刃が私の首を捉えている。けれど、怖くない。
「だから? 力の使い方もわからないセレスティアの娘など、羽蟻と同じ。所詮は蟻だ。ジュリアスが君を助けにくる前に、元の姿がわからないほど細切れにしてあげるよ。肉片と成り果てろ、クロエ」
怒りでメフィストの瞳孔が細くなり、口角が不自然なほどに吊り上がっている。
私はメフィストを睨みつけた。片腕だけを掴まれて私の体は宙に浮いている。
身動きが取れず、それしかできないけれど、何もしないよりはずっと良い。
「絶望に泣き叫んで、命乞いをしろ。お前の哀れな姿は、私を満たす」
「絶対に嫌です」
「そうか、ならば良い。君で遊ぶのも飽きてきたところだからね。それじゃあ、無残に死ぬと良い」
ヒュン、と風を切る音がする。
私に振り下ろされようとしていたメフィストの刃に、何かが纏わり付いた。
「よくも、エライザ様を……!」
中低音の掠れた声が聞こえる。
見えない糸のようなものが、メフィストの腕や羽を雁字搦めにしているらしい。
邪魔くさそうにメフィストが視線を送った先には、エライザさんやコールドマンさんと一緒に倒れていた少年が立ち上がり、見えない糸を掴むようにしていた。
ジャハラさんと同じぐらいの年齢だろうか。私と同じぐらいの身長の小柄な、全身を体にぴったりとした黒装束に身を包んだ少年である。
黒い髪に、仄暗く輝くアメジスト色の瞳。透けるように白い肌をした、どこか陰鬱な雰囲気のあるその少年は、手にしている見えない糸を強く引いた。
メフィストの体が糸に引きずられるようにして傾く。
網にかかった鳥のように、少年の方へと引きずられるメフィストは、煩しそうに片手で糸を掴んだ。
メフィストの拘束から逃れた私は、砂漠の上にとさりと足をつく。
膝ががくんと、折れてしまう。足が萎えてしまったように、立っていることができず、砂漠のさらさらな砂の上へと座り込んだ。
「良くやったわ、少年。あとは私に任せなさい」
ナタリアさんが私を庇うようにして箒に乗ったまま、すい、と空中を泳ぐようにして私の前にやってくる。
「手を出すな。この悪魔は、エライザ様を惑わし、あのような残酷な目にあわせた。僕が、殺す」
「せっかく君の愛しているエライザと身も心も一つにしてあげたのに、感謝して欲しいね」
「ふざけるな!」
少年がもう片方の手を動かすと、見えない糸がさらにメフィストにはなたれたようだ。
新しい糸は今度はメフィストの体にぐるりと纏わり付き、ぎりぎりと締め上げ始める。
恐らく、鋭利な刃のような糸なのだろう。
目視できないぐらいに細くしなやかで強靭な糸は、多分暗殺用の武器だ。
私のお店に来る傭兵団の方々にも、時々そうしたものを暗器として使用している方がいる。
普通に触れたら肌が切れてしまうぐらいに鋭利な糸で締め上げられても、メフィストの肌は切り裂かれることはなく、煩しそうに眉をひそめただけだった。
「こんな時に自己主張してくるんじゃないわよ。少年、そのまま人面鳥を捕縛してなさい」
ナタリアさんが空中を掴むようにすると、その手の中に中央に揺らめく炎を宿した星型のランプが現れる。
メフィストはナタリアさんに構わずに、見えない糸を掴んだ手を思い切り引いた。
メフィストが力を込めた途端、少年の体が簡単に宙に浮いた。
「エライザは君のことを気に入っていたからね、せっかく殺さないで生かしてあげたのに、残念だよ」
見えない糸に、紫色の炎がまとわりつく。
油で浸したロープに着火したときのように、炎は瞬く間に糸を舐めるように這い、少年の両腕が紫色の炎で包まれた。
けれど、少年は糸を離さない。
宙に浮いた状態から砂漠の砂の上に叩きつけられても、くぐもった声を少しあげただけで、糸を引き続ける。
「星界より来れ、空の落とし子!」
ナタリアさんが両手で掴めるぐらいの大きさの星型のランプを空に掲げると、それはひとりでに浮き上がる。
炎が揺らめき、今は蜘蛛の糸とハエトリ草で覆われてその隙間から見えるだけの青空を、一面の夜空へと変えた。
満天の星が煌めく夜空の中に、浮かんでいるみたいだ。
あまりの美しい景色に、私は息を飲んだ。
次の瞬間、夜空に輝く星々がメフィストに向かって落下を始める。
巨大な隕石が、熱の塊が、隙間のないぐらいに降り注ぎ、砂塵が巻き起こる。
避けられない攻撃にメフィストが両手で体を庇っている姿が一瞬目に映った。けれど、すぐに砂埃に塗れて見えなくなってしまった。
「どう、クロエ。お師匠様の錬金術は、凄いでしょ」
ナタリアさんは箒で素早く飛んで、両腕が黒くただれた少年を箒の先にひっかけるようにして回収して戻ってくると、得意げに言った。
倒れているエライザさんとコールドマンさんを囲むように、空を覆っていたものと同じ黒い蜘蛛の糸の防護壁ができている。
星の隕石の効果から守るためなのだろう。
「はい、ナタリアさんは凄いです。私は、まだまだですね……」
「そりゃそうよ。たった三年で追いつかれちゃったら、師匠としての面目が丸潰れだもの」
私はナタリアさんを尊敬の眼差しで見上げた。
ナタリアさんは、私の方ではなくて、睨むように空を見ている。
「もう、十分時間は稼いだ。……そろそろ来る頃よね。来てくれないと困るわよ」
ナタリアさんの視線の先を、私も追いかける。
夜空に、ぴしり、と罅が入る。
卵の殻が割れるようにして、ぴしりぴしりとひびが入っていく空から、明るい日差しが降り注ぐ。
そのひびを中心として、バラバラと景色が崩れ始める。
青空が顔を出し、その青空の中心に、黒く雄々しい姿がある。
「ヘリオス君……ジュリアスさん……!」
ラムダさんが、飛竜は神の使者だと言っていた。
確かにそうだと思えるぐらいに、青空に黒い翼を悠々と広げるヘリオス君は、神々しい。
そしてーー騎乗しているジュリアスさんは、片手に荷物のように無造作に、無残に羽がもぎ取られたサマエルを掴んでいた。
私は喉の奥で悲鳴をあげそうになった。ジュリアスさんの人相が、今までに見たこともないぐらいにあまりにも悪かったからだ。
そして私を助けに来てくれたのは分かっているのだけれど、その姿は白馬に乗った王子様というよりは、ヘリオス君に乗った魔王みたいだったからだ。




