ナタリア・バートリー
ナタリアさんは箒をひるがえして私に向かってひらりと飛んでくると、黒いレースの手袋に包まれた手を差し伸べてくれる。
私は油のきれた扉のように軋む体を、ナタリアさんの手をつかんでなんとか起こして立ち上がった。
にいっと笑む赤い唇は記憶にあるものそのままなのに、桃色を通り越して緋色に近い瞳は、私の知っているそれとは違う気がする。
ナタリアさんと会うのも三年ぶりだから、はっきりと覚えているわけではないけれど。
「久しぶりねぇ、クロエ。大きくなったわねって言いたいけど、あんまり変わってないわね」
「ナタリアさん、どうしてここに」
「理由なんてなんでも良いでしょ。私はピンチのあなたを助けに来た。ここは泣きながら、師匠、会いたかったって駆け寄ってくるところよね、クロエ。やり直し」
「そんな余裕ないので、また次回お願いします……!」
箒にまたがりながら腕を組みふんぞりかえるナタリアさんを見上げて、私は苦笑した。
(懐かしい。本物の、ナタリアさんだ)
私を拾ってくれてから、錬金術の基礎を私に教えてくれてしばらく、ナタリアさんが唐突にふらりといなくなってから三年も経っているのに、ナタリアさんは何一つ変わっていないように見える。
感傷に浸っている暇はない。
もう駄目なのかと諦めと絶望に支配されそうになっていた心に、光がともる。
正直もう動けないぐらいに疲れ果てていて、今すぐ眠ってしまいたいけれど、ナタリアさんの前で醜態を晒すわけにはかない。
「何死にそうな顔をしてるのよ、クロエ。泣いても笑っても、状況が変わるわけじゃないのよ。それなら、笑った方がお得でしょ。どんな状況でも、最後に笑ってる奴が勝ちなのよ」
「はい!」
私は表情筋を緩める。
口元に締まりのない笑みを浮かべると、砂漠の真ん中でにやにやしている私がなんだか間抜けな気がして、愉快な気持ちになってくる。
ジュリアスさんならなんていうかしら。
その締まりのない顔をなんとかしろ、阿呆、とかかしらね。
「弱気になってるんじゃないわよ。忘れたわけじゃないでしょうね。錬金術とは、何だったかしら?」
「錬金術とは、どんな魔法よりも優れた、世界最強の技術です!」
「そう! 空前絶後の最強美魔女にして世界最高錬金術師、このナタリア・バートリーと弟子のクロエが、お前をぎったんぎたんにしてやるわよ、人面鳥!」
ナタリアさんが消しとばした蛇の群れの、残滓を追うように眺めていたメフィストが、興味深げに目を細めた。
「その力、どこで手に入れた、人間?」
恐らく、ナタリアさんの魔法のことを言っているのだろう。
私も見たことのない魔法だった。
ナタリアさんは魔法使いとしても優秀なのは間違いない。けれど、先ほどの魔法は、まるで命を糧にして魔法を使っているルトさんのそれのように強力なものだったのに、ナタリアさんはいつもと変わらず、元気そうにしている。
破邪魔法とも違う。あんな詠唱は、ジャハラさんから頂いた本にも記載されていなかった。
「どこだと思う? ……秘密」
唇に指を当てて微笑むナタリアさんに、メフィストは不愉快そうにばさりと羽を羽ばたかせた。
「まぁ、なんでも良い。たかが人間がひとり増えたところで、虫けらが一匹増えただけのこと。お前たちの死は、確定しているのだから」
「動けるかしら、クロエ。駄目そうならそこでお師匠様の勇姿を見ていなさいな」
「大丈夫です、まだ足も手も、動きます!」
「よし!」
力強い掛け声が砂漠に響き渡る。
動けるには動けるのだけれど、ふよふよ空を浮いているナタリアさんの魔法の箒が羨ましいなと思う。
大丈夫だと言ってはみたものの、砂漠の砂に足をとられてしまい、走ることもままならない。
空を飛ぶことのできるメフィストと私では、機動力に雲泥の差がある。
「まずは、足止め。それから、羽を毟り取る」
ナタリアさんの冷静な声に、私は深呼吸をした。
羽のはえた空を飛ぶものを捕獲するための何か。確か、うってつけのものが、あったような気がーー
「うん、あった、ありました!」
メフィストは、空高く飛ぶと片手を空へと向ける。
青い空にいくつもの歪みができるのがわかる。
もう一度蛇を呼び出すつもりか、それとも異界の門を、生み出そうとしているのかもしれない。
魔物を相手にしている余力なんて、今はない。
私は無限鞄をあさり、苔玉にちょこんと一本植物の双葉がはえている形をした錬金物を取り出した。
「大きく育って田圃を守れ、対害鳥ハエトリ草! 人面鳥を捕まえて!」
「なるほどね。世界最強至高の錬金術師ナタリア様の力見せてあげる、空を覆え、捕獲の痺れ網!」
私が放り投げた苔玉を、ナタリアさんがふわりと空を飛んでキャッチする。
それから何もない空間に手を突っ込むと、蜘蛛の巣の形をした鉄で組まれた網のようなものを徐に取り出して、両手でその二つを潰すようにしてぐしゃりと合わせる。
錬金窯を使わない錬成を見るのも、これがはじめてだ。
そんなことができるのは、錬金術師の中でもナタリアさんぐらいだろう。
「二層錬金、対害鳥植物ハエトリグモ!」
私の苔玉とナタリアさんの蜘蛛の巣の網がナタリアさんのてのなかで混ざり合い再構築されて、錬成される。
虹色に手の中が輝いて、そこに現れたのは丸っこい形の蜘蛛の背中から双葉がはえている、なんとも愛らしい錬金物だった。
ナタリアさんはそれを思い切り空に向かって投げる。
蜘蛛が吐き出した黒い糸がメフィストを閉じ込めるように空を覆い、砂漠に大きな半円形の投網のような巣をあっという間に張り巡らせた。
蜘蛛の巣の至る所から、にょきにょきと、口をパックリ開いた緑色で内側がピンク色の巨大なハエトリ草がはえはじめる。
ハエトリ草は素早い動きでぱくぱくと口や茎を動かして、メフィストを捕縛しようとする。
メフィストは片腕を歪な剣の形に変化させて、ハエトリ草を切り裂いた。
「こんな子供騙しで、私を捕らえられるとでも?」
後から後から襲いかかってくるハエトリ草を、煩しそうにメフィストは避ける。
避けた拍子に大きな三枚の羽が蜘蛛の巣に触れた。
途端、羽から煙が上がる。
焼け焦げるような香りとともに、翼の一部が焼けて黒い羽を舞い散らせた。
「さっさと降りてきなさい。あなたたちは、魔力の塊みたいなものなんでしょ。その蜘蛛の糸には、魔封じの呪縛が施してあるから、触れられないわよ。元々は呪いの魔法を撒き散らす厄介な魔物の凶鳥用なんだけど、悪魔も凶鳥も同じようなものね」
「ちなみに私のハエトリ草は、田んぼのお米を食べちゃう鳥を優しく捕まえるためのものなので、殺傷能力はありません。ですが捕縛に特化しているので、空を飛び回っている限りは、羽のあるものは鳥だと認識して襲い続けますよ」
メフィストの顔に、はじめて怒りのような表情が浮かんだ。
今までいやらしい笑顔を浮かべてばかりいたメフィストの表情が変わったことに、私はにんまりと笑みを浮かべた。




