覚醒/助力
頬に、じゃりじゃりとした砂の感触がある。
心臓から指の先まで、森の奥で密やかに沸き続ける清らかな泉の水のような力が漲っていく。
血液が沸騰するように、体が熱い。
まばゆい光に、全身が包まれている。
砂漠の上で蹲る私の背中から、私の体よりもずっと大きな、美しい白い羽が二枚はえている。
私を中心に、光が溢れる。
それは砂漠の上を舐めるように円形にどこまでも広がって、魔獣の姿も、ミンネ様も全て覆い隠していく。
「お母様……! どうか、私に力を……!」
軋む体を叱咤して、腕を曲げて砂を掴む。
靴底で砂を踏み、体を起こそうとする。
体の重みがなくなったように、顔をあげるとすんなりと立つことができた。
白い羽が枷を無くしたように清々と伸びやかに、二度三度、ばさりと羽ばたいた。
これは――きっと、お母様のくださった、守護の力。
お母様の命と引き換えに、私に与えられた、一度だけの物。
春風と共に運ばれてきた花の香りのような、甘く優しい空気が私を包み込む。
それは、ほんの一瞬のことだった。
神聖な光が消え失せるとの同時に、背中の羽も何事も無かったように粒子のようにきらきらと光りながら薄れ霞み、消えていく。
同時に強い脱力感を覚えて、再び私は砂漠の上に膝をついた。
「エライザさん……」
見上げるほどに大きかった魔獣の姿はいなくなり、その代わりに私の視線の先には、エライザさんと、コールドマンさん、それから、名前も知らない少年が折り重なるように倒れている。
ミンネ様はがっくりと膝をついて、震える自分の体を抱きしめるようにしていた。
私は動かない体を叱咤して、転がるようにエライザさん達の元へと向かう。
近づいて呼吸を確認する。
規則正しく胸が上下している。宝石があしらわれた豪奢なドレスも髪も、砂塗れでぼろぼろだけれど、ただ気絶しているだけのように見えた。
「良かった、エライザさんたちが、無事で……」
ほっと息をつく。
それと同時に、耳障りな勝ち誇った笑い声が、静寂を切り裂いた。
「あ、はは……! はは……! セレスティアの守護とはこんなものか……! 守護の力の消えた君は、今まさに、無力でか弱いただの人間に戻ったというわけだ……!」
空から、悪夢が来訪するように、メフィストが舞い降りてくる。
傷一つ負っていないメフィストは、楽しくて仕方が無いとでもいうように、体をくの字に曲げてひとしきり笑った。
「使えない混じり物だと思ったけれど、実に良くやってくれたよ。私の魔力を与えたからだろうね、セレスティアの守護が君を守ってくれたようだ。忌々しい聖なる力。君の持つ守護が未知数だったせいで、直接手を下すのは躊躇っていたけれど、これで、君のことはいつでも殺せるようになった」
「甘く見て貰っては、困りますよ……! これで人質はいなくなりました、世界最強美少女錬金術師クロエちゃんの本領発揮も、これからですので……!」
私はふらつきながらも、なんとか立ち上あがった。
けれど、酷い脱力感と共に再び膝をついてしまう。
――どうしよう。
魔力も、体力も、根こそぎ持って行かれてしまったみたいだ。
指一本動かすことさえ、体が軋むように辛い。
このまま目を閉じて、眠ってしまいたい。
空に浮かぶメフィストの周囲の空間が捻れて、そこから光沢とぬめりけのある体をした、太くて巨大な蛇が何匹も現れる。
その蛇は、いつかアリザも呼び出していたものと似ている。
「良いね、その、不安に彩られた瞳。ここで君を殺したら――ジュリアスはさぞ、絶望するのだろうね。絶望し、私や人間を憎み、それから、あぁ、とても楽しみだ……」
うっとりと夢を見るような口調で、メフィストは言う。
倒れてる場合じゃないわよ。
私は、ここで死ぬわけにはいかない。
ジュリアスさんのため、自分のため。
それから私の命を繋いでくれたお母様や、私を守ろうとしていてくださったお父様の為にも。
(でも、どうしたら良いの……? 私に、何ができる?)
魔力は底をついている。
破邪魔法さえ使うことができれば、あの蛇たちには負けたりしないのに。
私はきつく、砂を握りしめる。
「さぁ、ご飯だよ、お前たち。今日は人間をたくさん食べさせてあげよう」
メフィストが蛇の顎をそっと撫でた。
蛇が私に向かい、空を泳いでくる。
私は無限鞄の中をあさる。何か、何かできることがある筈。
考えている暇はない。せめてと、錬金爆弾を掴んで取り出す。
「やめて……! もうやめて、メフィスト! もう、十分です……!」
ミンネ様の悲鳴に似た叫び声が響く。
自分を抱きしめるようにして蹲っていたミンネ様は、泣きながらメフィストを、懇願するように見上げている。
「静かに、姫君。君の願いはもうすぐかなえられるのだから」
「もう、良い、良いの……、もう……」
「少し、黙っていてくれるかな」
ミンネ様の足元から、ずるりと黒い手のようなものが何本もはえてくる。
人の手の形をしたそれは折り重なって、鳥かごの形を作り上げた。
鳥かごの中のミンネ様の口を、鳥かごからのびた黒い手が背後から塞ぐ。
くぐもった声とともに、涙が大きな瞳から、次々と流れ落ちていく。
「……っ、弾けて、錬金爆弾!」
純粋に攻撃力に特化した赤い丸い形の錬金爆弾を、蛇に向かって投げつける。
いくつかの蛇にぶつかった錬金爆弾は、爆音と共に燃え盛り、蛇の体に炎を纏わりつかせる。
何匹かの蛇の腹に風穴をあけることはできたけれど、それだけだった。
蛇に命はないのかもしれない。
蛇は傷を負ってもなお、鋭い歯を持った口を大きくあけながら、私に襲い掛かってくる。
私は、エライザさんの体を庇うように、覆いかぶさった。
逃げられない。
――もう、駄目なのかしら。
こういう時、いつもジュリアスさんが助けに来てくれた。
けれど今は――空にヘリオス君の姿は見えない。
広い砂漠の中で、私の姿を探すのはきっと至難の業だ。
それに、ジュリアスさんもサマエルと戦っている筈。
だから私は、一人でも勝たなければいけなかったのに。
じわりと、涙が目尻に滲む。
絶望がひたりと足音を立てながら、私の心の中に忍び寄ってくる。
「天より来たれ大いなる使者! 払い清めろ、神龍の息吹!」
その時だった――
力強い詠唱が、響く。
言葉と共に空から何本もの光線が、蛇たちに向かって放たれて、その体を貫き焼いた。
内側からはじけ飛ぶようにして、蛇たちが消えていく。
砂ぼこりで、視界が濁る。
霞む景色の先に、箒が浮かんでいる。
箒には――少々露出の激しい魔術師の服を着て、三角帽子をかぶった妖艶な美女が跨っていた。
「私の弟子を、虐めてるんじゃないわよ! この人面烏!」
はっきりとした大声で、啖呵を切っているその女性を、私は知っている。
「ナタリアさん……!」
ナタリアさんは、私をちらりと振り向くと、美しい顔に蠱惑的な笑みを浮かべた。
赤い唇が三日月のように弧を描いている。
それは私の師匠であるナタリアさんの、懐かしい、自信に満ち溢れた笑顔だった。




